榊マリコ専用避難所の設置について
「何があった?」
「え?」
唐突に背後から声を掛けられ、マリコは街並みから視線を移した。
「今日は鑑定で忙しいと言っていただろう。そんなお前がこんな時間に屋上でボンヤリしているなんて、何かあったと思うのが普通だ」
「さすがね、刑事さん」
「茶化すな。本気で心配しているんだぞ」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていいから、何があったのかを聞かせろ」
「うん…。ある
「実は親子じゃなかったってことか?」
「ええ。でも二人ともそんな事実は知らなかったらしいの。何かの間違いじゃないか、って怒鳴り込んできたわ」
「つまり、母親の不義理があったという訳か…」
「ええ。でもその母親はすでに他界しているのよ」
「秘密は墓場まで…か。残された家族はたまらんな」
「結果は変えられないから、最後はわかってくれたけど、あの二人のこれからが気になって、ね」
「それで、ここで黄昏れていたのか」
「私は事実に基づいた鑑定結果を出しただけ。そこに非があるとは思わない。だけど、正しいはずの科学が人の幸せを壊すかもしれないと思うと、やっぱりいたたまれないわ」
「そうだな。俺たち刑事だって同じだ。時に被害者が暴かれたくない秘密を晒さなければ、犯人を追い詰められない時もある。そういう時は、やっぱり後味が悪いさ」
「そんな時、土門さんはどうするの?」
「ん?そうだなぁ。俺はここに来るな」
「屋上に?」
「ああ。ここはいわば心の避難所だ。屋上で自分が守っている街並みと、科学オタクの顔を見ていれば、自然と滅入っていた気分が変わる」
土門はニヤリとマリコを見るが、マリコには伝わっていないようだ。
「心の避難所…」
「お前も試してみるか?」
察しの悪い科捜研の女に、土門は問いかけた。
「え?」
そう言うと、土門は突然マリコを抱きしめた。
「ど、土門さん」
驚きに戸惑うマリコ。
「どうだ?」
「え?」
「まだ落ち込んだままか?」
マリコはそっと目を閉じてみた。
あの父娘の事を思い出すと、まだ胸は痛む。でも同時に、感じる土門の鼓動、体温、香り、包まれる安堵感、全てがマリコの心を癒やしていく。
棘の痛みはどんどんと小さくなっていった。
「榊?」
「うん。気分が軽くなったみたい」
「そうか」
「ね、土門さん」
「ん?」
「もし、もしもよ。また落ち込んだときは避難してもいい?」
『この胸に』
その言葉は言えなくても、土門は「ああ」と笑って頷いた。
「避難所を忘れないように、避難訓練が必要だな。1日1回、ここで実施だ」
「避難訓練???」
「嫌か?」
マリコはしばらく考え、首を横にふった。
頬を赤く染めながら。
「嫌じゃないわ」
マリコはもう一度、土門の腕の中で目を閉じ、ゆっくりと呼吸をした。
心地いい…。
癖になりそうな予感に戸惑い、マリコが目を開くと、すぐ近くに土門の顔があった。
「忘れるな。ここはお前専用の避難所だ。何かあった時には迷わず飛び込んでこい」
「ありがとう…」
マリコは三度、瞼を閉じた。
ようやく重なる。
想いも、2つの影も。
いつも前を向いていけ。
真っ直ぐに進んでいけ。
だけど悩んだり、疲れたりしたときは休んでいけ。
ここはお前だけの避難所だから。
fin.
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