二人暮らし
しかしこの翌日から3日、二人はすれ違いの日々を送ることになった。
土門少尉は上司の藤倉中尉が風邪で寝込んでしてしまったことで、彼の代理としてあちこちの会議に出席したり、視察へ赴いたりと、朝早くから夜遅くまで奔走した。何とかマリコの家に帰ることはできたが、深夜近くなる日もあった。
そしてマリコもまた、緊急事態に見舞われていた。
伊知郎不在の間、父親の研究を引き継いでいたマリコだったが、部下の研究員から問題が発生したと連絡が来たのだ。マリコは朝から研究所に籠もり、ひたすら調査に明け暮れた。
そんな事情から、二人は食事を共にすることもなく、顔を見る時間があればまだましなほうだった。
そして伊知郎が英国に渡ってから6日目。
もう明日が帰国日だという前日の夜も、マリコは研究所に詰めていた。今夜のうちにできるだけのことを済ますと、ようやくマリコは帰り支度を始めた。他の研究員は少し前に帰ってしまっていた。窓の外を見れば、もう夜の帳が下りきっている。ハイヤーを呼ぼうか…マリコは夜道を案じて思案した。しかしハイヤーがすぐに来てくれるかは分からない。それなら歩いて大通りに出て、乗り合いバスで帰るほうが早いだろう。マリコはしっかりと施錠すると、門に向った。
歩き出してすぐ、マリコはその門扉に人のような影が動いたことに気づいた。背中に緊張が走る。ところが…。
「マリコさん!」
「少尉!?」
マリコに近づいてくるのは、まぎれもなく土門少尉だった。
「少尉?お仕事は?」
「休んでいた上司が午後から復帰されたから、自分は定刻で帰宅させてもらったんだ」
「そうでしたか」
「だから迎えにきた」
「すみません。待ちましたか?」
「問題ない」
土門少尉はそう言うが、定刻で仕事を終えたなら1時間近くここにいたはずだ。
「遅くなってごめんなさい!」
マリコは申し訳無さにガバっと頭を下げた。
「“そこは”、謝らなくていい」
「え?」
「そこは」と強調されたような気がして、マリコは顔を上げた。
「迎えに来たのは自分が勝手にしたことだから、気にしなくていい。でも、マリコさん。どうやって帰るつもりだった?」
「大通りから乗り合いで」
「大通りまでは?」
「あの、歩いて……」
「はぁ…」と盛大なため息。
「近くとはいえ、こんな暗い道を若い女性が一人で歩くなんて危険だと思わないのか?」
少尉の声には怒りが滲んでいた。
「ハイヤーを呼ぼうと思ったんです。でもすぐに来るかわからないし、それなら歩いてしまったほうが早いと思って」
「たった数十分のために、あなたに万一のことがあれば、自分はお父上に顔向けできん」
「…………………」
「何より、あなたを守れなかった自分が許せない。そんな思いはさせないでくれ」
最後は囁くような声だった。
「お父上のために、自分のために。マリコさん、自身を大切にしてほしい」
「………はい」
土門少尉はしゅんと落ち込むマリコの手を取る。
「さあ、帰ろう。……家に」
同じ家に帰るのは今日が最後。
二人で過ごす最後の夜。
何か言いたいけれど、何をどう伝えればいいのかわからない。
二人はそんな宙ぶらりんな気持ちのまま、家路を急いだ。