二人暮らし
翌日から伊知郎は分刻みのスケジュールで手続きや挨拶回りに走り続けた。帰宅してからは準備に明け暮れ、部屋からは夜遅くまで物音が聞こえていた。
いよいよ渡英という日、土門少尉は早朝からマリコの家を訪ねた。身支度もそこそこにマリコは少尉を迎えた。
「おはようございます、少尉。あの、こんなに早くどうしたんですか?」
「連絡もせず、申し訳ない。何か手伝うことがあればと思ったんだ」
「それは…」
「いや。土門少尉、ありがとう。私一人では運べそうになくてね。助かるよ」
部屋から顔をのぞかせた伊知郎はほっとした様子で、少尉を手招きした。
お茶を出すまもなく、男二人は次々に荷物を運んでいく。伊知郎自身の持ち物は大してなかったが、実験に必要な書物や器具などはかなりの量になった。
あらかた車に積み終えると、もう時間の猶予は幾ばくもない。
「慌ただしくてすまないね。土門少尉、マリコのこと、よろしく頼むよ」
「お任せください」
「マリコ。何かあれば土門少尉でも早月くんでも頼りなさい。一人で何とかしようとしてはいけないよ。いいね」
「わかってるわ」
いつまでも子供扱いされて、マリコは唇を尖らせる。
それでも父と1週間も離れ離れになるのは生まれて初めてなのだ。不安がないといえば嘘になる。
「お父さま。ちゃんと帰ってきてね。どうぞご無事で」
伊知郎はポンポンと娘の肩を叩く。
「行ってくるよ。留守を頼む」
「はい」
伊知郎は最後に自宅をぐるりと見渡すと、迎えの車に乗り込んだ。
「土産を楽しみにしておいで、マリコ」
笑顔で伊知郎が手を振ると、車は走り出した。
マリコはその姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
「行ってしまったな」
「はい」
マリコはまだ前方を見つめたままだ。
「大丈夫か?」
「え?はい。大丈夫です」
頷いたマリコはいつものマリコだった。
「少尉、朝ご飯は?」
「今朝はもう時間がない。このまま詰め所に向かう」
「すみません、父のために」
「いや」
「お帰りは何時ころでしょう?」
「そのことなんだが、マリコさん」
「はい?」
「今日は何か予定があるかな?」
「今日ですか?…いえ、特には」
「それなら、昼に駅前のカフェで待ち合わせをしないか?」
「え?」
「自分も家から着替えを少し運びたいと思って、今日は午後から休みをもらった。だから昼に落ち合って、食事をしよう。その後で荷造りを手伝ってくれないか?」
「は、はい。分かりました」
平日の昼に少尉と待ち合わせるなんて初めてだ。
マリコは今からドキドキが止まらない。
「では昼に。行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
夫婦になったら、毎朝こんな風に見送るのだろうか。
言ったほうも言われたほうも、何とも言えないこそばゆさを感じていた。
それは言いかえるなら、“幸せ”とよく似ている。