二人暮らし
「やあ、土門少尉。急に呼び出して悪かったね」
伊知郎の部屋の様子を見て、少尉は目を丸くした。
「これは…。どこかご旅行ですか?」
ベッドの上には何着ものスーツや、シャツが無造作に重なっていた。
「うん。そうなんだ。明後日から英国へ渡ることになってね」
「英国へ?神戸に停泊している船ですか?」
「知っているのかね?」
「海軍に知人がいます」
「なるほど。その船で渡英するはずの研究者に欠員が出てね。急遽、私が行くことになったんだよ」
「そうでしたか。それは支度が大変ですね」
「うん。だけど君にはどうしても頼みたいことがあって、来てもらったんだ」
「何でしょう?荷物運びならいつでも」
「いや。違うんだ。マリコのことだよ」
「マリコさんの?」
「私の留守は1週間になる。その間、君にこの家でマリコの護衛を頼みたいんだ」
「え!?」
土門少尉は思わずマリコを見る。
マリコは困ったような顔をしていた。
「通いの家政婦はいるが、それでは夜はマリコ一人になってしまう。もしも何かあったら…と思うと気が気ではなくてね。マリコと家の留守を安心して頼める相手は君しかいないと思ったんだよ。頼めるだろうか」
「もちろん。自分は構いませんが。しかし…もしおかしな噂にでもなったら」
「うん。だから申し訳ないが、居候という扱いにさせてもらいたいんだ」
まだ婚約者と名乗る準備はできていない。そんな男性を家に住まわせるとなると、書生や居候という身分が一般的だ。
幸いなことに、土門少尉の通う陸軍詰所は少尉の自宅より、マリコの家からのほうが近い。そこで伊知郎は、勤務の都合で1週間だけ、少尉はマリコの家に居候することになった、という作り話を考えたのだ。
「そういうことでしたら、承知しました」
「引き受けてくれるかね!」
「もちろんです。自分もマリコさんを一人にしておくことは心配です」
「ありがとう」
少尉は伊知郎へ敬礼すると、マリコと二人部屋を出た。
「本当は、私は反対です」
廊下を歩きながら、マリコがポツリと口にした。
「マリコさん?」
「土門少尉のような立派な殿方を居候だなんて…」
「自分は気にしない」
「でも!」
「そんなことより、あなたが1週間もこの家に一人でいることのほうが気になる。もし泥棒が入ったら。もし家事や災害があったら。そんなことを気に病むくらいなら、どんな形でもあなたと一緒にいる方がいい」
少尉の決意は固い。
「それに」
少尉は襟足に手を当てると、マリコからわずかに視線を逸らせた。
「それに、自分はあなたと同じ家で過ごせることがとても嬉しい」
「少尉…」
ここが自宅でなければ、マリコは少尉の胸に飛び込んでいただろう。
マリコは恥ずかしそうにうつむくと、「私もです」と小さく答えた。
その夜は、土門少尉にオードブルを運んできた早月も加わり、急ごしらえの送別会となった。
「おじさま、気をつけて行ってきてくださいね」
「ありがとう、早月くん。留守のあいだ、マリコのことを頼むよ」
「もちろんです。マリコさん、うちに来ればいいのに」
マリコは曖昧にうなずく。
「それなら心配ないよ。土門少尉に頼んだからね」
「え?」
早月は「どういうことか?」と首をかしげている。
「自分がこの家で留守を預かることになった」
「ええー!?」
少尉の言葉に早月は叫んだ。
「ま、待って。それじゃあ、二人は1週間、この家で二人っきり…………」
完全なるミーハーとなり、早月はキャーキャー興奮している。
「オッホン!!!」
早月を黙らせたのは、伊知郎の咳払いだ。
「もちろん。マリコは嫁入り前の大切な娘だ。しかし、土門少尉は規律厳しい陸軍軍人。間違いが起こるようなことはない、と私は信じている」
鼻息荒く、伊知郎は二人に言い聞かせる。
「自分の身はわきまえております」
土門少尉はひたっと伊知郎の目を見る。その眼に一変の曇りなし。………多分。