二人暮らし
夕方、マリコが研究所から戻ると、ちょうど伊知郎の乗った車が屋敷に横付けされた。
マリコは駆け出す。
「お父さま!」
「マリコ!ただいま。変わりはないかい?」
「はい…と言いたいところだけど、少し大変なことになっているの」
「研究所のほうかね?」
「ええ」
「今日くらいはゆっくりしたいんだがなぁ」
ぼやく伊知郎に、マリコはさっそく話を始めようとする。
「ダンナさん、この荷物はどこへ?」
「ああ。書斎へ運んでもらえるかね」
「承知しました」
「マリコ。話は荷物を運んでからだ」
「そうね。私も手伝うわ」
運転手、伊知郎、マリコでかわるがわる荷物を屋敷へ運び入れる。
「書籍や資料の一部は明日の船便でつく予定なんだ。だから今日の荷物はこれだけだ」
それでも衣類や貴重品、おそらく仕事道具など、それなりの数のダンボールが書斎には積み上がっていた。
「ところで、マリコ。土門少尉は?」
「今夜からご自宅へ戻られました」
「そうなのかい?夕飯を一緒にと思ったんだけどね」
「少尉もお父さまにご挨拶したかったみたいなんだけど、さすがに今日は親子でゆっくりしたいだろうから、って」
「ふぅん」
伊知郎はじっとマリコを見ている。
「なに?」
「いや。1週間も二人きりで、何も間違いは起こらなかったのかね?」
「な、な、な、何を言うの、お父さま!そ、そ、そ、そんなこと、あ、あ、あるわけがないでしょ!!!」
「そんなに慌てて弁解しなくても…」
伊知郎は娘の吃りっぷりがおかしくて、声を上げて笑っている。
「笑い事じゃないわよ。私たちがどれだけ……」
「うん?」
「何でもありませんっ!」
つんっ!とマリコはそっぽを向いた。
そんな愛娘を慈しむように見ていた伊知郎だったが、彼ももう十分に分かっていた。
この二人が深く愛し合っていることを。
いつまでも子どもだと思っていた娘が、彼の話をするときは大人の女性の顔になるのだ。
愛らしさから、美しさへと。
少女から女性へと羽化し、飛びだっていこうとしている。
それを止めることは伊知郎にはできない。
ならば、せめて幸せになれるように見守るのが父としての役目だろう。
「それにしても困ったな」
「どうしたの?」
「少尉にはお世話になったことだし、土産を買ってきたんだよ。今夜渡せると思っていたんだがね」
「それじゃあ、明日にでも寄ってもらえるように連絡しておくわ」
「しかし、研究所の方でトラブルがあるんだろう?明日からその対応に追われるかもしれない。こまった。あー、困った」
「お父さま?」
「実に困った。大いに困った」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「一つ、頼まれてくれるかい?」
「なに?」
「今から土産を少尉へ届けてくれないか」
「今から?」
「そう。今ならまださっきの運転手がいるはずだよ」
「だけど、もうこんな時間なのに…」
壁の時計は、もう20時を過ぎていた。今から少尉の家を訪ねれば、帰りは21時を過ぎるだろう。
「そうなんだ。今からだと帰りが遅くなるから、私も心配でね。だからね、マリコ」
ポン、と伊知郎はマリコの手に小さな箱を置いた。
「この土産を渡して、帰るとき、21時を過ぎていたら、無理して今夜のうちに帰らなくていいよ」
「え!?」
「若い女性の夜の外出は危険だからね」
「お父さま、それは…」
「さあ、早く支度をして出かけないと、21時をすぎてしまうよ?」
マリコは何も言えず、ただじっと父親の顔を見つめた。
伊知郎が外泊を許してくれたのだ。
「ありがとう!お父さま!」
「ただし、今夜に限っての話だよ」
釘を刺すことは忘れない。
「気をつけていきなさい。少尉にくれぐれもよろしく伝えておくれ」
「はいっ!」
マリコは取るものも取り敢えず、待っていた車に乗り込んだ。きっとこの車も伊知郎が手配していたに違いない。マリコは何よりも嬉しい父からの土産に胸が踊った。
少尉に会える。
少尉と一緒に居られる。
少尉と………。
早く、早くと、マリコはただ前だけを見つめていた。
呼び鈴に少尉が引き戸を開けると、そこにはマリコが立っていた。
「マリコさん!どうしたんだ、こんな時間に。まさか、お父上に何か…」
「違います
マリコは落ち着くために、深呼吸をした。
「父からのお使いで来ました。これをお渡しするようにと」
マリコは父から預かった箱を少尉に手渡す。
「これは?」
「英国のお土産だそうです」
「そんな…わざわざ。明日でも構わないのに」
「どうしても、と父が」
「そうか。すまない、マリコさん。すぐに家まで送ろう。着替えるまで、上って待っていてくれ」
「少尉、今何時でしょう?」
「ん?ちょうど21時になったところだ」
「それなら、今夜は泊めてください」
「なに?冗談を言うものではない。父上が心配される」
「いいえ。その父の言いつけなんです」
「どういう事だ?」
「21時を過ぎたら、夜道は危険だから無理して帰ってくる必要はない、と言われました」
少尉は呆気に取られている。
「それは…本当か」
「はい。だから今夜は…………泊めて、少尉!」
マリコは少尉の胸に飛び込んだ。
ここが玄関だということも忘れて。
少尉もその小さな体をしっかりと抱きとめた。
「それはお許しが出たと思っていいのか?」
「はい」
「それなら、遠慮はしない」
「きゃあ!」
少尉はマリコを抱き上げる。
反動でマリコのヒールがコトンとタタキに落ちた。
「マリコさんを目の前にして、1週間も我慢を強いられた。今夜は多分あなたを手放せないだろう。嫌だと思ったらハッキリ言ってくれ」
マリコはくすっと笑った
「マリコさん?」
「それは私も同じです。少尉と一晩一緒に居られると思ったら、もう気持ちが舞い上がってしまいました。ずっとはしたないと思って黙っていました。でも私も」
マリコは自分を抱く少尉の顔を引き寄せると、唇を合わせた。
「私もあなたに触れたい。触れられたいです」
「マリコ…」
7日間、168時間という時を埋めるように、二人は愛し合った。
幾度となく意識を飛ばし、何度果てても、過ぎゆく時間を惜しんで、体を重ね互いを求め合う。
やがて明けの明星が顔を出してもなお、閨が静まることはなかった。
眠い目を擦り、マリコがようやく重い体を起こすと、今朝も少尉の作った朝食に迎えられた。
「マリコさん、大丈夫か?」
「え?」
「その、体が…。昨夜は大分無理をさせてしまった。すまない」
マリコは真っ赤になりながらも首を降った。
「私も望んだことですから」
「朝食を済ませたら、家まで送ろう」
「はい」
「ところで、お父上からの土産は何だろう」
「あ、そうですね。開けてみますか?」
その存在をすっかり忘れていた二人は、今更ながら箱の蓋を開けた。
「これは、腕時計か」
少尉は普段懐中時計を愛用していたのだが、随分と古くなり、そろそろ修理が必要だと思っていたのだ。
「さっそく使わせてもらおう」
少尉は左腕にはめてみる。
「お似合いです」
「ありがとう。ぜひお父上にお礼を伝えたい。今夜マリコさんの家に寄らせてもらおう」
「父に伝えておきますね。何時ころお見えになりますか?」
「そうだな…」
少尉は腕時計を確認する。
「少尉?」
少尉はなぜか時計から目を逸らしている。
「すまん。文字盤の9を見ると、昨夜のことを思い出していまいそうだ」
魔法の始まりは21時だった。
マリコは瞬間湯沸かし器のように首筋まで赤く染まる。乱れに乱れた昨夜のことは、できるなら忘れてしまいたい。
「わ、忘れてください。お願い」
「そんな勿体ないこと、できないし、したくない」
少尉は腕時計をはめた腕で、マリコの背中にすっと触れた。
ビクリと跳ねる体を柔らかく抱きしめて。
「早く貴方を毎日独り占めしたいものだ。一日中、この腕に」
少尉の言葉に応えるように、カチッと長針が時を刻んだ。
伊知郎から贈られたこの時計は、この時から長く二人の人生を見守っていくことになる。
針が羅針盤を回り続ける中で、やがてマリコはその身に白無垢を纏い、後にふくよかな腹に帯を巻く。そしていつしか家族が増え、また二人に戻り…だが、それはまた別の機会に綴ることとしよう。
仮初ではなく、本当の二人暮らしが始まるそのときに。
fin.
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