二人暮らし
時刻は遅くなったが、久しぶりに二人揃っての食卓は料理の味も一段と美味しく感じられた。
「少尉、おかわりはいかがですか?」
「ああ。もらおうか」
「はい」
「ん?マリコさん、口の端に何かついているようだ」
「え?ここですか?」
「いや、もう少し上」
「ここかしら?」
「いや、もっと…」
説明するより取ったほうが早いと、土門少尉の指がマリコの唇を掠めた。
「取れた」
「あ、ありがとうございます」
――――― どうしよう。
何でもないことなのに、ドキドキが止まらない。
美味しかったはずの料理の味も、今はもう、マリコにはわからなくなってしまった。
夕食を終え、土門少尉が風呂を使っている間、マリコは居間のソファに座って順番を待っていた。
ところが連日の疲れが出たのか、瞼が重くなってきた。何度か瞬きするが、抗えそうにない。マリコはソファに寄りかかったまま、いつしか寝息を立て始めた。
少尉が湯から上がると、マリコはぐっすり眠っていた。
こんな場所では風邪をひいてしまうだろう。少尉は迷わずマリコを抱き上げると、寝室へ向った。
ふわふわと宙を浮く感覚と、体の半分がポカポカと温かい。
マリコは心地よくて、無意識に温かい方へ体を擦り寄せる。
「…………………」
子猫のような仕草が愛らしく、土門少尉は自然と微笑んでいた。こんな姿が見られるのも今日まで。期限付きだとわかっていても、「やはりもう少し」と願ってしまうのは無理からぬことだろう。
マリコを起こさぬように、土門少尉はそっとベッドへ降ろした。
そして布団をかけようと体を起こしかけたとき、するりと首に腕が巻き付いてきた。
「マリコさん?」
「行かないで」
「しかし…………」
自分のワガママが少尉を困らせている。
マリコの手がパタンと落ちた。
「ごめんなさい」
それだけ言うと、マリコは土門少尉に背を向ける。顔を枕に埋めても、震える肩は隠しきれない。
少尉はマリコの肩を引き、自分の方へ向かせた。けれど泣き顔を見られたくなくて、マリコは顔を背けたままだ。
少尉はその両脇に肘をつく。息がかかるほどに、二人の顔が近づいた。
「し、少尉…」
「何もしない。少しだけこのままで…」
マリコは嫌だと何度も首をふる。
「困った
少尉は眉をハの字にして苦笑する。
「自分だって、いや、自分のほうがずっとあなたに触れたいと思っているのに」
「それなら!」
「マリコさんはこの1週間、どうだった?」
「え?」
「あなたに触れないという自戒はあったが、それでも自分は楽しくて、幸せで、あっという間の1週間だった。今まで知らなかったマリコさんを沢山見ることができたからだ。あなたが実は朝が弱いことや、時々自宅の鍵の置き場を忘れてしまうことも初めて知った」
「恥ずかしい…」
マリコは穴があったら入りたい気持ちだ。
「それだけじゃない。お茶をいれるのがとても上手なこと。そして」
土門少尉はマリコの髪に触れた。
「湯上がりの髪は艷やかで」
さらり、とマリコの髪は少尉の指をすり抜ける。
「化粧などしなくても、肌は白磁のように美しい…何度触れたいと思ったことか。マリコさん。許されるなら、朝も昼も夜も、あなたを独り占めにしたい」
普段はあまり見せないが、土門少尉はとても情熱的な人だ。その熱はいつだってマリコの悩みや気がかりを、あっという間に溶かしてしまう。
「少尉…。私もこの家で少尉の顔を見るたびに、ずっとドキドキしていました。本当はもっとずっと一緒にいたいです。でも」
マリコがぐすっと鼻を鳴らすと、土門少尉は濡れた瞳を拭ってくれた。
マリコは「もう大丈夫」というように頷いて見せた。
「次はずっと一緒に居られるように…今は我慢します」
マリコは恥ずかしそうにはにかむ。
「あなたは何て…」
土門少尉はバフッとマリコの隣に顔を伏せた。
「何て健気で、強い女性だ……敵わない」
くっくっと少尉は顔を伏せたまま笑う。
「少尉?」
「マリコさん。この続きは近いうちに自分の家で」
「え?」
「いいか?」
「…………………はい」
一度だけ、二人は短く唇を合わせると、土門少尉はマリコの寝室を出ていった。