二人暮らし
「えっ!」
マリコは突然のことに目を丸くし、絶句した。
「いい案だろう?」
父、伊知郎は妙案に興奮していた。
一体どういうことかと言うと。
今しがた伊知郎からマリコへ語られた話とは、こうだ。
3日後、渡英予定の研究員に突然欠員がでてしまった。その補充として、伊知郎に声がかかったのだ。期間は1週間。
この渡英は国の支援を受けた学会の取り組みで、特に医療、科学の分野での日本の水準を引き上げることが主な目的だ。そのため、できるだけ多くの研究者の派遣を国は望んでいる。学会としても欠員を出すことは避けたいのが本音だ。そして何より、伊知郎自身もいつかは最先端の科学に触れてみたいと思っていた。年齢的にも最後のチャンスだろう。伊知郎は一も二もなく飛びつきたかったのだが、問題は一人娘のマリコのことだった。
流石に年頃の娘を一人、家に残して1週間も留守にすることは憚れた。従姉妹の早月に頼もうかとも思ったが、商いをしている彼女の家に迷惑を掛けることは気が引けた。
さて、どうしたものか…と、そこで伊知郎は素晴らしい解決案を思いついた。
「私が留守の間、土門少尉に来てもらいなさい」
「え?」
これが冒頭の会話だ。
「いい案だろう?土門少尉なら腕っぷしも頼りになるし、私も安心だ。ただし、居候としてだ。事情を話せば、土門少尉は引き受けてくれるだろう」
確かに、少尉なら嫌とは言わないだろう。マリコが困っていると知れば、すぐに駆けつけてくれる人だ。しかし、いきなり好きな相手とひとつ屋根の下で二人きりだなんて。マリコは心臓の鼓動が煩いくらいだ。
「マリコ。早速、土門少尉を呼んでもらえないか?私は荷造りで忙しい」
伊知郎はそういうと、自室に戻り、何やらガタガタと準備を始めてしまった。
マリコは嬉しいような、困ったような…。何とも言えない感情を抱えたまま、土門少尉の自宅へ電話をかけた。
少尉には『父から話があるから来てほしい』とだけマリコは伝えた。
『わかった。今から稽古の時間だから、終わったら伺うとお父さまには伝えてほしい』
「はい…」
『マリコさん?』
「はい?」
『何かよくない話なのか?』
「え?」
『声に元気がないようだ』
戸惑うマリコの様子を、悩んでいると勘違いしたようだ。
「いえ。大丈夫です。後ほど、お待ちしていますね」
『うむ。それでは』
電話が切れると、マリコは近くの椅子にストンと座り込んだ。
土門少尉は、少し前から剣道道場の師範として、時々手伝うようになっていた。そこは退役した少尉の上司が開いた道場で、頼まれたのだそうだ。
しかし始めてみれば、少尉にもよい息抜きとなるようで、マリコにも道場での出来事を楽しそうに話してくれる。
その道場での稽古のあと、少尉はここに来るのだ。
「大変!もしかしたら、一緒に夕食を食べていかれるかもしれないわね。何か用意しなくちゃ…」
立ち上がったマリコは右往左往歩き回るものの、結局はまた椅子に戻ってしまった。
「焦っても、今からじゃ私には何も作れないわね。諦めて早月さんに何か頼みましょう」
マリコは再び受話器を取ると、今度は従姉妹の家に電話をかけた。
3時間後、土門はマリコの屋敷の呼び鈴を鳴らした。
「はい!」
迎えに出てきたのはマリコだ。
「こんばんは、マリコさん」
「土門少尉。お待ちしていました。お稽古お疲れさまです」
にっこり微笑むマリコは、今日はラベンダー色のワンピースを身にまとっていた。
土門少尉はそんなマリコの姿に目を細め、しばし見惚れた。
「少尉?」
立ち尽くした少尉を心配するマリコ。
「何でもない。遅くなってしまってすまない。失礼する」
用意されたスリッパに履き替え、少尉はマリコの後についていく。
「マリコさん」
「はい?」
振り返ったマリコに、少尉は。
「そのワンピース、あなたにとてもよく似合っている」
そう小声で囁かれ、マリコは真っ赤になる。
これから父に会うというのに、どうしよう…マリコは少しでも頬の色を和らげようと、何度も息を吐き出さなければならなかった。
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