土門さんの恋人
「いいか。絶対に顔を出すなよ?」
土門は胸元に向かって言い聞かせる。
「わかってるわよ」
「…………………」
まるで時限爆弾を抱えている気分で、土門は府警のエントランスをくぐった。
「土門さん、おはようございます」
駆け寄ってきたのは蒲原だ。
「おう。昨日は急に休んで悪かったな。今朝の会議は9時からか?」
「それが部長の都合で、15分からになりました」
「そうか。わかった。聞き込みの成果のほうはどうだ?」
「あんまり芳しくないですね。他の班の奴らにも聞いてみたんですが、新情報はないみたいです」
「もともと物証も少なかったからな」
土門と蒲原は、別班が担当している事件を手伝うことになったのだ。
「ええ。あ、これ。今朝、鑑識から届いた資料です」
「ん」
蒲原からバインダーを受け取ると、土門はその場で内容を確認していく。
ポケットの中から二人の会話を聞いていたマリコは、鑑識からの資料の中身が気になって仕方ない。
「少しくらいなら、いいわよね」
マリコはそっとポケットの縁に手をかけると、そろそろと顔を出した。
「ふぅん。車から毛髪が発見されたのね。すぐに科捜研で鑑定しないと」
「ああ、そう………!?」
思わず返事をしかけ、土門は胸ポケットを見下ろして焦る。慌てて、ポケットに手を当てた。
「どうかしましたか?」
蒲原が不思議そうに土門を見ている。
「土門さん、胸ポケットに何か入れてるんですか?何かが動いたような…?」
「き、気のせいだろう。それより急がないと」
土門は時計を見る。
話している間に時間は経ち、もう間もなく捜査会議が始まる。
「そうですね。行きましょう、土門さん」
「俺はこのバインダーだけ置いてから行く。さっきに行ってろ」
「わかりました」
蒲原は早足で会議室の方向へ歩いていった。
「ポケットから出るなって言っただろう。見つかったらどうする?」
「だって、鑑識からの資料が気になったのよ」
「それはわかる。後でお前にも見せてやるから、今は我慢しろ。いいな?」
「………………うん」
微妙な間に「勘弁してくれ」と土門は頭を抱えたくなる。しかしマリコの気持ちも分かるし、何より自由を奪われたマリコに、土門は強く当たることはできなかった。
これも惚れた弱みだろうか。
土門はポケットのぬくもりを感じつつ、捜査会議へと向った。
会議中、マリコは予想に反しておとなしかった。
「寝ているのか?」と気になり視線を落としてみれば、マリコはちょこんと座ったまま、真剣に会議を聞いているようだった。
40分ほどで会議は終了し、捜査員たちはそれぞれの持ち場へと戻っていく。土門も手元の資料を片付け、蒲原と捜査へ戻ろうかと思ったとき、やけに深いため息が聞こえた。
「私、何もできない。何の役にもたてない」
胸ポケットから聞こえのは土門に対するものではなく、自分自身へ向けた心の声が思わず漏れてしまった…そんな声色をしていた。
土門はポケットへ人差し指を差し込むと、感触でマリコの髪を探り、それをグリグリと混ぜた。
「ちょっと!ボサボサになっちゃう!!」
聞こえた文句に土門は笑う。
まだ元気はあるらしいな、と。
すっと指を引き抜こうとすると、思わぬ抵抗にあった。
不思議に思い覗き込めば、マリコが土門の指をぎゅっと握っていたのだ。正しくは「しがみついていた」と言うべきか。そして土門を見上げる瞳は少し寂し気だった。
「蒲原。悪いが車を回しておいてくれ。すぐに行く」
「わかりました」
土門は立ち上がると、階段に向かう。
踊り場の隅に移動すると、ポケットへ声をかけた。
「誰もいないから出てきてもいいぞ」
ぴょこっと顔を出すマリコ。
その仕草が可愛すぎて、土門はしゃがみ込みそうになる。
「土門さんはこれからどうするの?」
「蒲原と外回りだ。PCのチェックはその後になる。悪いな」
ううん、とマリコは首を振る。
「ポケットの中は退屈だろう。やはり家に居ればよかったな」
「退屈なんかじゃないわ。私も協力したいのに何もできないから歯がゆくて」
「事件のことは俺や科捜研の皆にまかせて、お前は自分が戻る方法を考えろ。それが最優先事項だ」
「うん。わかってる」
「よし。それじゃあ、行くぞ」
「あ、待って」
「ん?」
「あの…………」
「なんだ?」
「もう一度してくれない?」
「何をだ?」
マリコは土門の指を引っ張ると、自分の頭に乗せた。
ようやく意味の通じた土門は、今度は丁寧にマリコの髪を撫でてやった。