Over 50 〜二人なら夢も恋も〜



「え?本庁…ですか?」

「ああ。捜査一課へ異動の打診が来ている。決めるのはお前だが、またとないチャンスだぞ?」

藤倉はデスクに肘を付き、両の手を組んだ。

「はぁ」

対して土門は上の空といった返事だ。

「少し考えさせてもらえますか?」

「構わん。答えが出たら教えてくれ」

「はい」

土門は頭を下げると、部長室を辞した。



「え?講師…ですか?」

「うん。広島の法医学教室で、実験的に実地研修プロジェクトをはじめることになったんだって。文科省の肝入りらしくてね、優秀な研究員を期間限定で講師として派遣してほしいってうちにも要望があったらしいよ」

「それで、私…ですか?」

「良くも悪くもうちで一番のエースはマリコくんだからね」

「期間限定って、具体的にはどのくらいなんでしょうか?」

「出向扱いになるからね。最低でも3年は向こうにいることになるね」

「3年…」

「新しい機材や鑑定方法も試せるし、最先端の研究にも参加できるみたいだよ。ま、考えてみてよ」

「はい…」



「どうするかな…」

刑事部長室を出ると、土門はガリガリと襟足を掻いた。

本庁への異動とは、すなわち栄転だ。
退官までの年数を考えれば、おそらく自分には最後の異動となるだろう。
本庁の捜査一課で退官を迎える…それは多くの警察官が望んでも、叶うのはきっと一握りの選ばれた人間だけだ。
その中の一人に名前を連ねることができれば、刑事人生の誉れだと土門も思う。

心残りなのは、蒲原だ。
出会った頃と比べれば、随分と成長し頼もしくなった。
本当ならあと少し、自分の下で育てたいという気持ちはあるが、それも藤倉や他の捜査員たちが引き継いでくれるだろう。

土門には世話をする両親はすでに亡く、唯一の肉親である美貴も、今では自分の足で人生を歩んでいる。できるなら、伴侶を見つけてほしいとは思うが、それは土門が言えた義理ではない。

では。
土門の決心を鈍らせているもの、その最たる原因は一人の女だ。
仕事に対して同じ志を持ち、信頼し、共に支え助け合う、最高のパートナー。

しかし、土門はもう随分と以前からその関係に満足できなくなっていた。
平たく言えば、土門は彼女に惚れている。
いい歳をして…とも思うが、何かの歌詞にもあるように、これが最後の恋だろう。

京都を離れれば、彼女とのつながりもなくなる。

本当はさっさと告白でもして振られるか、運良く恋人になれれば、身の振り方も決めやすいだろう。
そんなことはわかっている。わかっているが、どうしても踏み出せない。
満足はしていなくても、どっちつかずの今の関係が心地いいのだ。
それを壊してまで…と、ためらう気持ちが土門にブレーキをかけていた。
悩み多き男の足は、自然とある場所へ向かっていた。



「どうしたらいいのかしら…」

マリコは自分の鑑定室に戻ると、椅子に座り、ぼんやりと宙を眺めた。

新しい機材を使って、色々な実験ができるのは魅力的だ。
それに、おそらくあちこちから優秀な科学者が派遣されてくるだろう。彼らと専門分野について議論を戦わせる時間も、マリコには得難いほど有意義な時間となるはずだ。

広島へ引っ越せば、横浜の両親とはさらに離れてしまうけれど、今よりは時間に余裕ができるだろう。そうすれば帰省はかえってしやすくなり、親孝行もできる。

「だけど…」

視線を戻したマリコは、一人の男性のことを考えていた。
その人は熱いけれど、優しい人で、マリコをとても信頼してくれている。そして自分が迷ってしまった時は手を差しのべ、危険が迫れば身を挺して守ってくれる。

いつの間には、マリコにはなくなてはならない人になっていた。
彼のいない毎日なんて想像できない。

その感情は、段々とマリコのプライベートな時間まで侵食するようになった。
上手く料理が作れた日には、これは彼の好きな味だろうか。食べたら褒めてくれるだろうか。
窓から綺麗な月が見えれば、彼に寄り添い、二人で静かに眺めてみたい。

はじめは戸惑ったマリコも、今は自覚している。
自分は恋をしているのだと。

京都を離れれば、彼とのつながりもなくなる。

彼をつなぎとめるためには、勇気を出して想いを伝えるしかない。しかし、恋愛偏差値の異常に低いマリコには、どんなタイミングで、何をどう伝えるのが有効か、まったくわからない。
それに、もしうまく行かなかったら…そんな想像ばかりが膨らみ、ますますマリコを臆病にしていた。
思い悩んだマリコは不意に立ち上がると鑑定室を出た。
その足は勝手にある場所へと向かっていた。


1/3ページ
スキ