Sweet home
伊知郎との電話から、マリコの気分は沈んでいた。
それに気づいていた土門は、仕事あがりにマリコの鑑定室をのぞいた。
「よぉ。まだ残っていたのか?」
「土門さん!もう帰るところよ」
「榊、何かあったのか?」
「え?どうして」
「どことなく…いつものお前とは違う気がしてな。悩み事があるなら、聞くぞ」
先日の屋上と同じ。
マリコは少しだけ甘えてみようか?と思った。
「この前、実家の処分の話をしたの覚えてる?」
「あ?ああ」
「結局、家は売らないことに決まったんだけど、父さんがね」
「榊監察官に何か言われたのか?」
土門は伊知郎との会話を反芻し、マリコが何を言われたのか気になった。
「いずれは実家を処分するつもりだって」
「そう、なのか?」
「それは母さんも賛成しているんですって。もしそんなことになったら、私の帰る家は無くなるんだなぁって…」
遠くを見つめるマリコの瞳には陰りが見えた。
土門はそんなマリコの様子に胸が痛んだ。
そしてその胸の痛みと、先日の己の決意に決着をつける時がきたのだと悟る。
「榊、今から言う住所を控えろ」
そう言うやいなや、土門は早口で番地を告げる。
マリコは慌ててスマホに記録した。
「この家、何かの事件に関係しているの?」
「いや。俺の家だ」
「え!?」
「俺の家の住所だ。ちゃんとメモしたか?」
「え、ええ」
「そうか。それなら、これからお前の帰る家はここだ。忘れるなよ」
さらっと、何事でもないように土門は口にした。
「………どういうこと?」
「そのままの意味だ。ああ、そうだ。これ」
土門はマリコに名刺を渡した。
「榊監察官が頼んだ引っ越し業社だ」
「父さんに会ったの?」
「ああ。日帰りで出張へ行った際に偶然な。その時にこの名刺を貰ったんだ。幸い京都にも支社があるらしい。ここに頼めば家族割引パックで安くしてくれるそうだぞ」
マリコは名刺を手に完全に固まる。思考が働かない。
その様子を見て、土門は苦笑した。
「榊。帰る家がない、なんてそんなことは言うな。お前ひとりぐらい俺の家に置いてやる」
「そんな。だけど…」
マリコは尚も混乱していた。
「嫌か?」
「………………嫌、では、ない…わ」
躊躇いがちに、それでもハッキリとマリコは答えた。
今はその返事だけで十分だった。
「今すぐでなくてもいい。お前が引っ越してもいいと思ったら、うちに来い」
「そんな…いつになるかわからないわよ?」
「構わんさ。これまでずっと待ち続けてきたんだ。あと数年伸びたところで俺の気持ちは変わらん」
そうだ。
ずっと、ずっと思い続けていた。たとえ叶わなくても。
「あ、しかし十年以上になりそうなら教えてくれ。年金生活になってるかもしれんからな」
ワハハと豪快に笑う土門。
それはマリコにプレッシャーをかけないようにという土門の配慮だ。
マリコはその優しさに目頭が熱くなった。
本当なら今すぐにでもその気持ちに応えたかった。でも、まだマリコの気持ちは揺れていた。
一緒に暮らすことで、土門はマリコに愛想をつかすかもしれない。
それにこの先、土門が一緒に暮らしたいと思う女性が現れないとも限らない。
もし、そうなったら…。
そのときこそ、本当にマリコは帰る家を失ってしまう。
それをマリコは何より恐れていた。
だがそんなマリコの気持ちさえ、土門はすでに読み取っていた。「そんなことはない」と否定したところで、マリコは納得しないだろうことも織り込み済みだ。
「榊。これは提案なんだが、トライアルをしてみないか?」
「トライアル?」
「そうだ。ペットを飼うときも、お試しでしばらく家に連れてくるだろう。お前もしばらくうちで暮らしてみないか?どうだ?」
「私はペットと同じってこと?」
「まあ、細かいことは気にするな」
マリコは“ぷっ”と吹き出した。
「そうね。まずは一晩だけ、お邪魔してみようかしら?」
「よし。それならさっそく今夜にしよう」
「こ、今夜!?」
急な展開にマリコの声が裏返る。
「こういうことは勢いが大事だ。そうと決まれば帰るぞ」
「え?え?」
「駐車場で待ってるぞ。支度したら来いよ」
勝手に話を決めると、土門はもう踵を返していた。歩いていないと足が震えそうだった。
マリコからの拒否の返事は聞きたくなかったのだ。