Sweet home
「父さん?」
マリコは仕事中にかかってきた着信相手に眉を潜め、それでも「はい?」と通話をオンにした。
『まぁちゃん、今少し大丈夫かな?』
「ええ。少しなら。どうしたの?」
『うん、この前した横浜の家のことなんだけどね。母さんとも話し合って、売らないことに決めたよ』
「そう!でもそうなると、父さんはどうするの?」
『横浜の家に戻るよ。まぁちゃんに言われたこと、父さんなりに反省したんだ。母さんは明るい人だけど、やっぱり一人は心細いだろうからね』
「よかった」
マリコは心から安堵した。
自分の帰る家はまだ、ある。
『今、引っ越しの準備を進めているんだけどね、仕事で使う本や紙の資料が膨大でね。困ってるんだ』
マリコは黙って聞いている。
『そこで相談なんだけど、まぁちゃんの部屋を父さんの書斎に使わせてもらえないかな?』
「え?」
『だって、まぁちゃんはほとんど帰ってこないし、部屋を遊ばせておくのも勿体ないでしょ?』
「そんな…。それじゃあ、私が帰ったときはどこで寝ればいいの?」
『数日なら、リビングか母さんと一緒でもいいよね』
「えー」
マリコは不満げな声をあげた。
『ねえ、まぁちゃん。そろそろうち以外に“帰る家”を見つけたらどうかな?』
「父さん?」
『父さんも母さんも、ずっとまぁちゃんと一緒に居たいと思っているよ。だけど、それは無理な話だ。まぁちゃんだってわかっているよね?』
「…………………」
『そうなった時、まぁちゃんのことだけが気がかりなんだ。そろそろ父さんと母さんのこと、安心させてくれないかな』
「それは、また考えておくから」
『考えて何か変わるのかい?』
いつになく、伊知郎は食い下がる。
『まぁちゃんは、横浜の家を継ぐ気があるの?』
「それは…」
『京都を離れるのかい?転勤をして』
「転勤?」
『そう。横浜の家を継ぐということは、そういうことでしょ?』
「マリコ」と伊知郎は娘に呼びかけた。
『君は京都を離れられるのかい?働きなれた職場や科捜研の仲間…土門さんだってここにはいないよ』
“どうして土門さんの名前が出てくるの?”そんな疑問さえ浮かんでこなかった。
――――― 土門さんがいない?
『まぁちゃん。今回は見送ったけど、いずれあの家は処分するつもりだよ。それは母さんも賛成してくれた。だから、まぁちゃんは自分の帰る家を探すんだよ』
伊知郎のその言葉に、マリコは足元が揺らぐのを感じた。
今立っているこの場所はなんと脆く、儚いことか。薄氷がひび割れるのは、もう…時間の問題なのかもしれない。