Sweet home
男二人は、すぐ近くの居酒屋の暖簾をくぐった。昼はビジネスマン向けにランチ営業をしている店のようだ。もうすぐ満席になりそうだったが、運良く窓際の席に落ち着くと日替わり定食を2つ注文した。
「相変わらず忙しいのかい?」
「残念ですが、商売繁盛です」
土門は眉を下げる。
刑事など本当は開店休業状態が一番いいのだ。
「ん?ちょっと失礼」
伊知郎は土門に断ると、震えるスマホを耳に当てた。
「はい、榊です。はい、そうですね。見積もりの通りで大丈夫です。あ、ダンボールは少し多めでお願いします。書籍類が多いもんですから。ええ、よろしくお願いします」
通話を切ると、伊知郎は「引っ越し準備が忙しくてね」と笑った。
「引っ越しされるんですか?もしかして実家を手放すとかいう話でしょうか?」
「あ。もしかしてマリコから何か聞いているかな?」
「自分はただ、奥様が実家を引っ越そうとしていたのを榊が止めたという話を聞いただけです」
土門は先日、屋上でマリコから聞いた話を繰り返した。
「そうか。少し事情が変わってね。実家は手放さないことに決めたんだ」
「奥様は?」
「もちろん。家に残るよ」
「え?それでは引っ越しというのは…」
「私がね、家に戻ることにしたんですよ」
「そう、ですか」
「実はマリコに叱られてね」
伊知郎は頭をかく。
『東京と横浜なんて通勤しようと思えばできる距離じゃない。別に単身赴任しなくたって、遅くなったときだけホテルにでも泊まれば済む話よね?父さんが母さんを放っておくから、母さん…引っ越すなんて言い出したのよ。寂しいんだわ、きっと。母さんの寂しさを癒やすのは父さんの仕事でしょ。私はあの家がなくなるなんて嫌だから、しっかりしてよ。父さん!』
つっけんどんな娘の叱責に伊知郎は何も言えず、白旗を揚げた。それからすぐに引っ越し業者を手配し、来週末には横浜に戻ることにしたのだ。
「まぁちゃんも気が強くてね。誰に似たんだか…」
そのボヤキには答えず、土門は「榊は、監察官の帰る家がなくなったら困るだろうと心配していたようです」と口にした。
そして。
「もしかすると、自分の帰る家もなくなると思ったのかもしれません」
「そうだね。まぁちゃんにも早く帰る家が見つかるといいんだけどね」
チラッと伊知郎は、土門を見る。
「榊の帰る家、ですか?」
「そう。僕らだっていつまでも元気でいられるわけじゃない。いずれは病院なり、介護施設なりのお世話になるだろうからね。そうなったとき、マリコにはあの家とは別に帰る家を見つけておいて欲しいんだ。ねえ、土門さん」
「はあ」
「協力してやってもらえないかな?」
「協力というと?」
「マリコの帰る家を一緒に探して欲しいんだ」
「……………」
それはどういう意味か。
土門は戸惑う。
「京都府警か科捜研に、マリコの帰る家になりそうな…誰かいい物件はいないかな?」
「そんなやつ!」
カッとした土門が力いっぱいと手を握ると、ガタッとテーブルが揺れ、湯呑のお茶が波打った。
「そうだよね。いないよね。だけど一人だけ、私には心当たりがあるんだ」
伊知郎は土門をまっすぐに見た。
「それは捜査一課の刑事さんでね。マリコとも長い付き合いで、気心の知れた間柄だ。私は彼なら、マリコの帰る家にピッタリだと思うんだよ。どうかな…」
そして何事か続けようとしたとき。
「お待たせしました!日替わり定食でーす」
物件探しは一旦棚上げとなった。
伊知郎と居酒屋を出るとき、「さっきの話、考えてみてくれるかい?」と言われ、土門はとっさに頷いてしまった。
「よかった。ありがとう。あとは君たち二人が決めることだ。何か手助けが必要なときは連絡して」
暖簾の前で別れると、土門は戻る道すがらずっと考えていた。
「そんなやつ!」その先を自分はなんと続けるつもりだったのか。
立ち止まり、ポケットに手を突っ込んだまま土門は空を見上げた。
この青空は京都へと続いている。
もしかしたら今、マリコも同じ空を見上げているだろうか…。
ーーーーー そんなやつ、いない。アイツは誰にも渡さない。
「いい加減、年貢の納め時かもな」
それは、誰の耳にも届かない土門の決意。