Sweet home
闇バイト強盗事件が無事に解決した直後。
いずみから改めてマリコへ電話があった。
『ごめんね、マリちゃん。あの電話…引越し業者からだったの』
「え?どういうこと?」
『実はね、少し前に見積もりを頼んだの。お友達に聞いたら、いくつかの会社に頼んで比較したほうがいいって言われて。ええと○○引越センターと、引っ越しの○○と…あと2つくらいの会社へ見積り依頼をしたら、そこから一斉に電話がかかってきたみたい。母さんすっかり忘れていたから、ヘンな電話と間違えちゃったのよ。心配かけてごめんね、マリちゃん』
「ちょっと待って。電話の件はわかったわ。でも、母さん。引っ越しってどういうこと?私、聞いてない」
『ん…。去年くらいから考えていたの。父さんが単身赴任になって、結局忙しいからほとんど帰ってこれないし。あなたは…ねえ?』
「…………」
電話口からため息が聞こえ、マリコは思わず黙る。
『一人でこの広い家に暮らしているのは勿体ないでしょう?今は、何かと値上がりしていて、維持費や光熱費も馬鹿にならないわ。それにもう何年かしたら夫婦で年金生活になるのよ。少しでも早いうちにこの家を売って、小さな家に引っ越せば節約になるじゃない?』
「それは…そう、だけど。父さんはなんて言ってるの?」
『……………』
「まさか!まだ話してないの?」
『だって、父さんは反対しそうだもの』
「だからって勝手に進めていいような話じゃないでしょ!ダメよ、母さん。ちゃんと父さんと話し合って」
『でもね………』
「それにね、私は売ってほしくないな」
『マリちゃん?』
「あの家は父さんと母さんのものだから、私が何か言える立場じゃないと思うけど、売ってほしくない」
『どうして?』
「どうして、って…」
マリコは実家の記憶を思い返してみた。
子どもの頃の懐かしい思い出が沢山詰まった家だ。マリコといえど、やはりなくなってしまうのは寂しい。
それに何より。母にはあの家に居てほしい。
以前帰省したとき、玄関の引き戸を開けると、帰ってくるマリコのためにスリッパが置かれていた。
リビングに足を踏み入れれば、なつかしい香りがした。テーブルには菓子鉢が置かれ、その上には母の手作りのレースがかかっている。そして端には今日の新聞とリモコンが一列に並んでいた。
畳には2枚の座布団。ただそれだけの空間が、マリコにはたまらなく心地がいい。
腰を落ち着ける前に、マリコは台所をのぞいた。今風のアイランドキッチンなどではないが、シンクの前には見慣れた背中があった。
「ただいま」
その人は驚いて振り返る。
「あら、ビックリした!全然気がつかなかったわ…」
エプロンで手を拭きながら、笑顔の母はマリコに近づくと、ポンと腕を叩いた。
「おかえりなさい、マリちゃん」
その後ろではコトコトと鍋が煮立ち、味噌のいい香りがした。
「ただいま、母さん」
目と耳と鼻と触れ合う感触、そして母の手料理を味わうことで覚えている記憶は鮮明だ。
それらは全て、母とあの家が形作るもの。
何年たっても変わらない。
なくならない。
ずっとある。
そう、マリコは勝手に信じていた。
「どうしてって…それは、ほら。父さんが悲しむんじゃない?自分の帰る家がなくなっちゃうわけでしょ」
『大袈裟ねぇ。別に家は借りるんだから大丈夫よ』
そういうことではないのだ。
悲しいのは、自分。
マリコは何とも言えない感情に翻弄されながら、語気強く断定した。
「とにかく私は反対。まだ父さんにも話していないなら、引っ越しのことは聞かなかったことにするから!」
『マリコ…?』
「仕事中だから切るわね」
訝しげな母を残し、マリコは電話を終えた。
マリコは阿久津刑事の母親のことを考えていた。
「あの男はもう来ないのね?」すすり泣き、すがるような目で、マリコに確認する彼女。
「あんな広い家に一人で…」
すぐに、いずみと重なった。
「怖かったんですよね」そう阿久津刑事の母親に声をかけたのは自分だ。
ーーーーー もし、いずみだったらどうだろう。
マリコは考えずにはいられなかった。
今回はたまたま引っ越し業者からの電話だったけれど、いずみの元にだってアポ電がかかってくることは十分にあり得る。
その時、いずみもあんな目をして自分や父に泣きつくのだろうか。
想像もできなかった。
マリコの中でいずみは、いつまでも自由奔放で、おっちょこちょいで、でも優しくて強い女性だ。
だけど歳を経て、人は変わる。臆病になり、弱くなっていくのだ。今まではできたことも、段々とできなくなり、そうしたことが増えていく。
それが老いであり、人の歩む道なのだ。そして老いていく親の代わりに、子は強く大きくなり、今度は親を守る。
それなのに自分は守るどころかあの広い家に母を一人きりにして、たまにしか帰らないのに、いつも通りに笑顔で迎え入れてほしいと願っている。
「勝手ね、私」
マリコはポツリとつぶやく。
あの家が無くなったら。
「寂しいのは父さんじゃなくて、私だわ…」
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