理性と感情のその先で求めてる。
ところが…。
その夜、マリコは舌の根も乾かぬうちにバーカウンターに突っ伏し、すやすやと寝息を立てていた。
隣には高身長の外国人。
「マリコ。マリコ。帰らなくていいのかい?」
「う…ん…………」
「参ったな…」
ロジャーは口ほど参った様子もなく、むしろ楽しそうにマリコの鼻を突いたり、耳に触れては満足そうに微笑む。
「マリコ、マリコ」
「ん…」
「僕の部屋で休むかい?」
「ん……」
ロジャーは、マリコの髪に触れてみた。
さらさらと溢れる黒髪は軽やかで、ほんのり花の香りがした。
「マリコ。僕は、遠慮はしないよ」
耳元で囁いても、マリコは静かな寝息を立てるだけ。
「…………チェックを」
バーテンダーに声をかけると、ロジャーは立ち上がる。
「マリコ。僕につかまって」
ロジャーはマリコの肩を抱き寄せ、抱えるようにしてバーを出ていった。
「んんっ。頭が痛い………」
マリコは目を覚ますと、ガンガン痛む頭を抱え、こめかみを揉む。
「Morning!」
「え?」
隣から聞こえた耳慣れない声にマリコは固まる。
「二日酔いかい?飲み過ぎだよ、マリコ」
「ロ、ロジャー!?」
「ん?」
「あの、こ、ここは?」
「僕の部屋だよ」
「えっ?私…どうして…………」
「覚えてないのかい?君はバーで潰れて眠ってしまったんだよ。それで仕方なく僕の部屋に連れてきたのさ」
「そ、そうだったの。迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑?とんでもない。僕は嬉しかったよ、マリコ」
ロジャーはマリコを抱きよせ、額にモーニングキスを送る。
そこでマリコは、ロジャーが上半身裸なことに気づいた。気になるけれど、怖くてロジャーの下半身まで確認することはできない。
そして、改めて自分の姿を見下ろせば、キャミソールとショーツしか身に着けていなかった。
マリコの背中を嫌な汗が流れる。
「ロジャー。あの、私たち、昨夜………」
「マリコ。素敵な夜だったよ。ありがとう」
「!?」
マリコは再び頭を抱える。
体に変わった感覚は…多分、ない。
だけど、マリコには昨夜の記憶がまるでなかった。
自分とロジャーは、本当に一線を超えてしまったのだろうか。
マリコは、どうしても思い出せなかった。
交代でシャワーを浴びると、二人はフロントへ下りて行った。
「一緒にブレックファーストを」というロジャーの誘いをマリコは断った。出勤の前に一度自宅へ戻りたかったのだ。
スマホの充電も切れてしまった。
きっと土門から着信が山のように届いているに違いない。
逐一連絡しろと言われていたのに。
自分の身に起きたことをどう説明すればいいのか。
話せば、怒らせてしまうかもしれない。
それどころか、嫌われてしまうかもしれない。
マリコの頭の中は焦りと不安でぐちゃぐちゃだ。
とにかく一度帰らなければ…。
しかし。
「榊」
フロントのソファに、その人はいた。
「迎えに来た」
「土門さん!」
「連絡がつかなくて、心配したぞ」
「ごめんなさい。充電が切れていたことに気づかなくて…」
マリコはバッグの中のスマホを探す。
「そうか」
土門はちらりとロジャーに目を向ける。
「帰ろう。家まで送る」
「う、うん。ありがとう。でも、スマホが…」
「部屋に忘れたんじゃないかい?」
「え?そうかも。部屋に置いてきちゃったのかしら」
「はい。探しておいで」
ロジャーはカードキーをマリコに渡す。
「僕はプレックファーストを食べてくるよ」
「ええ。土門さん、ごめんなさい。少しだけ待っていて」
「わかった」
土門の返事を聞くと、マリコは小走りでエレベーターに向かった。
「随分と怖い顔だ。君は…マリコと一緒にいた刑事だね?」
マリコを見送ると、ロジャーは背後に立つ男を振り返った。
「自分は捜査一課の土門です」
「では、土門刑事。僕に何か聞きたいことでもあるのかな?」
ロジャーは土門に向き合う。
「スマホはあんたの仕業か?」
前置きなし。単刀直入な物言いに、ロジャーは失笑した。
「充電の件は知らないよ。だけど、部屋を出る前にマリコのバッグから失敬したのは確かに僕だ」
「なんのために?」
「もちろん、マリコを今夜も呼び出すためさ。君のせいで失敗したけどね」
悪気なく、ロジャーはそんなことを抜かす。
「昨夜は夢のような時間だった。マリコは若い頃から美人だったけど、年を経て、とても女性らしくなったね」
そういうと、ロジャーは不敵に笑った。
「君には悪いけど、マリコは僕がいただくよ」
「あんた!」
「マリコは僕の理想だ。明晰な頭脳に、美しい黒髪、それに…スレンダーなスタイルもね」
下卑た言い方に、土門は頭に血が昇った。
「きっさま!!!」
土門はロジャーの胸ぐらをつかんだ。
そして二人の男は睨み合う。
フロントマンが何事かと駆け寄ってきた。
「離してくれないか?僕は今から朝食なんだ。ちょうどマリコも戻ってきたようだしね」
まさに、エレベーターからスマホを手にしたマリコが降りてきたところだった。
「どうしたの、二人とも?」
「何でもないよ。じゃあ、マリコ。また後で連絡する。昨夜の話もしたいからね」
「ロジャー…」
マリコは心底困った顔でうつむく。
「榊、帰ろう」
土門は無理やりマリコの背中を押して、ロジャーとの会話を終わらせる。
マリコは大人しく土門に従った。
帰りの車中は無言だった。
低いエンジンの音が一定のリズムで響くだけ。
先に耐えきれなくなったのはマリコだった。
「何も聞かないの?昨夜のこと」
「聞いてほしいのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
「お前が話したいなら、話せばいい」
「……………………」
マリコはしばらく迷ったが、それでも土門に嘘はつきたくないと口を開いた。
「食事の後で、ホテルのバーへ行ったの。だけど、そこから記憶がなくて」
「……………」
「眠ってしまった私を、ロジャーが介抱のために部屋へ連れて行ってくれたらしいの」
「それで?」
「………気がついたら、朝だった」
「で?」
肝心の部分がすっとんだ報告に、土門は眉を上げた。
「それだけ」
「それだけ、ってお前…」
「記憶がないのよ」
「アイツはお前と何かあったような口ぶりだったぞ」
「私にもそう言ったわ。だけど、本当に思い出せないの」
「その、どうなんだ?体は…」
マリコは真っ赤になりながらも、首を振る。
「わからない。だけど、そういう…感じはしない……と思う」
何ともあやふやな話だ。
「やっぱり信じられない?」
「……………信じたい気持ちは強い。だが、正直にいうと100%信じられるとも言い難い」
「そう……よね」
「榊。俺はお前があの男に隙きを見せたことは許せない。逐一連絡しろと言っておいたはずだ」
「………」
痛いところを突かれ、マリコは黙る。
「お前はもっと自分の価値を知れ。そしてもっと自分を大切にしろ。時々、お前は自分を軽く扱うところがある。俺にはそれがもどかしい」
「土門さん?」
土門は前方に視線を向けたまま、静かな声で話していた。しかし、その表情は切なげで、苦しげだ。
「お前が思っている以上に、俺にとってお前は大事な存在だ。お前にはそれをわかって欲しい」
「…………」
「そして、もう一つ言っておく。何があっても、俺のお前への気持ちは変わらない」
たとえロジャーとの間に予期せぬ出来事があったとしても、それがもとで自分の気持ちが揺らぐことはない、そう土門は言っているのだ。
「ごめんなさい。土門さん」
マリコは、後悔した。
土門の言うことを聞かず、一人でロジャーを訪ねた結果が、こんなにも大きな代償となってしまった。
一番大切な人を深く傷つけた。
うつむくと、ポツンとしずくが落ちた。
ギアを握っていた手が、黒髪を優しく撫でる。
「泣くな。わかってくれればそれでいい」
「うん……」
車がマリコのマンションについた時、一度だけ、土門はマリコの涙の跡に唇で触れた。
「ここで待っているから、着替えてこい」
「…………うん」
マリコは土門へ「一緒に来ないのか?」と視線を向けたが、土門は気づかないふりをした。
今、マリコの部屋へ足を踏み入れれば、土門はマリコを仕事に行かせられなくなる。
何があろうと土門のマリコに対する気持ちは変わらない。
それは事実だ。
それでも。
どうしても土門の脳裏にはロジャーの顔がちらついてしまう。
マリコには非がなく不可抗力だとわかっていても、嫉妬と怒りに任せてマリコを泣かせ、気絶するほど抱き潰してしまうかもしれない。
土門は手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、荒れ狂う感情をこらえた。