特別編



虫の知らせ、とでも言おうか。
土門少尉はふと夜中に目を覚ました。
そして、いつもより乱れたように聞こえる寝息を耳にした。

「マリコ?」

隣を見ると、妻のマリコは夜目にもわかるほどに赤い顔で苦しそうに呼吸をしていた。

「マリコ!」

土門少尉はマリコの額に手を当てた。

「すごい熱だ」

布団から飛び起き、すぐに台所へ向う。水を張ったたらいと手ぬぐい、湯呑の支度をして少尉はマリコの元へ戻った。

「マリコ、苦しいのか?」

「……………」

返事はなく、ハァハァと荒い息遣いだけだけが聞こえる。土門少尉が額を冷やしてやると、うっすらマリコが目を開けた。

「マリコ、大丈夫か?」

「あな、た…。お水…」

少尉はマリコの背中を支え、湯呑を持たせようとするが、マリコは手に力が入らない。土門少尉は水を口に含むと、迷わずマリコに口づけ、水を与えた。
マリコは夫の体を押し返そうとするが、弱々しい力では意味がない。

「あなた、離れて。もし………」

「そんなことは心配するな」

「でも」

「いいから、今は眠りなさい」

「………………」

少尉が髪を漉いてやると、マリコはすっと眠りに落ちていった。


この頃、世界中でスペイン風という流行病はやりやまいが猛威を奮っていた。もともと西側諸国で感染が拡大していたのだが、いよいよ日本国内でも感染者が見つかり、以降はあっという間に広がりを見せている。有効な薬もなく、人々はただ恐れ慄きながら日々の生活を送っている有様だった。
そんな中で咳や発熱といった症状を発症した者は、感染を疑われ隔離される。しかし診療所はどこも満床で、結果、何の治療も受けられなかった患者は死を迎えることになるのだった。


「マリコ…」

少尉は眠るマリコの手を握る。熱が高く、その手は熱かった。だがそれは、マリコが必死に病気と戦っている証だ。
ぬるくなった手ぬぐいを取り替えれば、マリコの呼吸は少しだけ和らぐ。少尉は夜を徹してマリコの看病を続けた。



翌日もマリコの熱は下がらなかった。
土門少尉は近くの診療所に電話をかけたが繋がらない。仕方なく少尉が診療所を訪ねると、門前払いを食わされた。

「うちでは無理だ。帰ってくれ」

「しかし、このままではマリコの具合が…何とか診てもらえないだろうか?」

「無理だね。見りゃわかるだろ。もう満床だし、人手も足りてない。とても新しい患者を診る余裕はないんだ。他を探してくれ」

確かに、診療所は廊下にまで患者が溢れていた。
これ以上問答しても時間の無駄だろう。彼らも好きで断っているわけではないのだ。土門少尉は無理を承知で頼み込み、何とか熱冷ましの薬を少しだけ手に入れると、自宅へ引き返した。

途中、よくマリコと二人で訪れる寺の前で立ち止まると、手を合わせた。大切な妻が流行病ではないように。一日も早く回復するように、土門少尉はひたすら祈った。



帰宅した土門少尉が部屋を覗くと、マリコはまだ眠っていた。額の手ぬぐいを変えようと、少尉の手がマリコに触れたとき、閉じていた瞳がパチリと開いた。

「マリコ?目が覚めたのか?気分はどうだ?」

「……………」

マリコはゆっくりと視線を巡らせている。

「マリコ?」

その瞳が土門少尉を捉えると、マリコは。

「土門さん?」

そう口にした。






「え?」

一瞬、時が止まったかのように、土門少尉は硬直した。

「違う…土門さんじゃない。あなたは、あなたは……」

マリコは必死に消えたはずの記憶を辿る。

「もしかして……土門少尉、ですか?」

「マ、リ、コ、さん?どうしてここに?記憶が…何故だ?」

少尉はパニックに陥る。

「土門、少尉…」

ハッと少尉はマリコをみる。これまでとは違い、マリコの体はどうやら元のままのようだ。つまり、病を患っている状態だ。

「マリコさん、具合はどうだ?」

「ええ。かなり熱が高いのか、頭も体も痛いです。だけど不思議なんです」

少し苦しそうに、それでもマリコは喋り続ける。

「こうして話したり、動いたりすると、とても体は辛いのですが、私の意識はそれほど不調を感じないんです」

「?」

「うまく説明できないんですが、体は別の人が動かしていて、私は少し離れたところから話している…そんな感じがするんです」

「マリコさんの意識だけが、こちらに来てしまったのだろうか?」

「可能性はあります。私は向こうの世界でちょうど布団に入ったところでした。その時、誰かが何かを必死に願う声が頭に響いて…気づいたらここに」

土門少尉の脳裏に先刻の寺のことが頭を過るが、まさかな…と振り払う。

「ということは、向こうの世界にはマリコの意識だけが飛ばされたのか?」

「いえ…。多分、マリコさんはこの体の中で眠っているのではないかしら。マリコさん自身がこの体にとどまっているから、私は意識だけしか来ることができなかった…。もっともこれは私の勝手な推測ですが」

一気に喋ると、マリコは「ふぅ」と息を吐いた。

「すまない。大丈夫か?」

「土門少尉、何か飲むものをもらえますか?」

「今、白湯を」

立ち上がった少尉はすぐに湯呑を手に戻ってきた。

「飲めるか?」

流石に飲ませることはできない。少尉がマリコの体を支え起こすと、マリコは湯呑に口をつけた。

「ありがとうございます。ところで、マリコさんはどうしてこんなことに?」

「わからない。昨夜、自分が気づいたときにはもう熱が高くて…そうだ!あの、マリコさん」

少尉はこの時ふと、別世界から来たマリコなら、この病気について自分たちが知らないことを知っているのではないかと思ったのだ。

「はい?」

「今、こちらの世界では流行病が蔓延している。もともとは外国で広まっていたものが、最近になってこの国でも流行りだしたというのだ。そしてその病はかかれば死ぬ、という噂が巷では流れている」

「大正時代に流行した感染症…」

マリコは口元に手を当て、過去に読んだ文献の記憶を思い返す。

「おそらくスペイン風邪ね」

「スペイン風邪?」

「ええ。まだそういう名前はついていないと思いますが、確かに特効薬も見つからず、多くの人が亡くなっています」

「それでは、マリコも?」

「少尉。マリコさんは血痰を吐いたり、鼻血を出したりしましたか?」

「いや。まったく」

「それではスペイン風邪の可能性は低いでしょう」

「本当か!」

「油断はできませんが、スペイン風邪の特徴として出血傾向が多いことが後の調査で判明しています」

「では、マリコは?」

「ただの風邪、でしょうね。だって、ほら」

マリコは自分の額を少尉につき出す。
不意打ちにドキリとしつつ、土門少尉は手を当てた。

「熱が!」

微熱はあるが、昨夜と比べれば大分体温は下がっているようだ。

「よかった。マリコ…」

思わず妻の体を引き寄せてしまった少尉は、慌ててマリコから離れた。

「すまない」

「いいえ」

元気を取り戻しつつあるマリコは、クスッと笑った。

「ところで土門少尉。あなたとマリコさんは…」

「うむ。先ごろ、夫婦になった」

「そうですか。あなたはこの世界の私を見つけて、幸せにしてくれたんですね。よかったわ」

「マリコさん、あなたは?」

マリコは静かに首を振る。
土門少尉を見上げる表情は切なげだ。

「自分があなたの世界に行けたなら…。そうしたら向こうの土門薫を殴ってやるのに!あなたを待たせて。こんな顔をさせて。自分の分身の存在がそんなことをしていることが、腹立たしくて仕方ない!」

土門少尉にとってマリコは特別だ。所謂、初恋の人に近い。
土門少尉が愛するのは生涯妻一人だが、マリコは誰よりも幸せになって欲しい人だ。

「ありがとう、少尉。でも土門さんのことは悪く言わないで。意気地がないのは私も同じなんだもの」

「マリコさん」

「私がいる世界は、ここよりずっと自由なんです。仕事も結婚も自分で決められます。性別も家柄も関係ない。だけど、自由だからこそ悩んだり、迷ったりしてしまう」

「どういう意味だ?」

「マリコさん、お仕事は何を?」

「今は父親の研究を時折手伝っているが…」

急に話題を変えるマリコに戸惑いながらも、少尉は答える。

「お子さんは?」

「まだだ」

「お子さんが生まれてからも、マリコさんは仕事を続けるつもりかしら?」

「いや。それは子育てに専念してもらうことになるだろう」

「そう、ですよね。きっとそれがここでの“普通”。だけど私は、出産しても仕事は続けたいんです。そしてあちらの世界ではそれを認めてくれます」

「だったら一体、何を悩む?」

「それが本当に生まれてくる子どものためなのか。私のエゴではないか。それがわからなくて悩むんです。自由で選択肢が多い中から、自分は果たして最善を選択できるのか…。多分、土門さんも同じだと思います。彼は私を大切にしてくれています。でも、あなたと同じ…命の危険もある仕事をしているんです。だから、自分の身に何かあったときのことを考え、私との関係が進むことを躊躇している…」

「自分にはわからない」

「少尉?」

「あなたのことを案じているのは、あなたを愛しているからだろう?それなら、迷わず手に入れるべきだ。これを見て欲しい」

少尉はマリコの前に新聞を広げた。
そこには診療所に詰めかける人々や、亡骸を取り囲むようにして泣きじゃくる家族の写真が載っていた。

「人の命は有限だ。限りがあるなら、自分は1分1秒でも無駄にしたくない。悩んでいる時間があるなら、自分はその時間を妻と共に送りたい。彼女を幸せにすることに使いたいと思う」

「……………」

マリコは少尉の言葉に目の前の霧が晴れたようだった。

『何が一番大切なのか』
それを見誤ってはいけないのだ。

――――― 私は土門さんよりも仕事が大切なの?
答えは『否』だ。

ああ、とマリコは目を閉じる。
答えはとっくに出ていた。


「ありがとうございます、少尉。なんだかスッキリしたわ」

マリコの表情に明るさが戻る。
土門少尉はそんなマリコの頬に手を伸ばした。

「あなたに暗い顔は似合わない。あなたには笑っていて欲しい。またここでの記憶を無くしてしまっても」

「少尉?」

「一度だけ。向こうの自分には秘密にしてくれ」

そういうと、マリコの頬をやさしい感触がすり抜けた。

「戻っておいで、マリコ」

その一言が引き金となったのか…。
マリコは急激な眠気に襲われ、土門少尉へ言葉を返すことも出来ないままに意識を手放した。

代わりに。

「…ん。あな、た?」

今の状況が飲み込めず、マリコはきょとんとしている。

「マリコ。具合はどうだ?」

「え?ええ。もう何ともないです」

「そうか、よかった」

「ずっと看病してくれたんですね。あなた、ありがとうございます」

「いや」

口数の少ない少尉は妻に優しく微笑みかけ、その手を握った。

「あなた?何か…あったんですか?」

いつもの夫とは少し様子が違う気がして、マリコは首をかしげる。

「何もない。マリコが元気になってよかった…」

土門少尉は妻の体を抱きしめる。この香りも温もりも自分のもの。誰にも奪わせない。渡さない。たとえ死神でも。
自分でも呆れるほどの独占欲だと思うが、そんな自分と似て非なるあの男も、きっと同じように嫉妬と独占欲の塊に違いない。

さっさと手に入れてしまえば、こんなにも幸せになれるのに…。

「馬鹿な男だ」

「え?」

少尉は病み上がりの体に負担がかからない程度には配慮しつつも…妻の唇を味わう。
彼女は生きて、自分のものだと確かめるために。




翌朝、マリコの中から土門少尉の記憶は消えていた。けれど、これまでにないほどスッキリとした目覚めに、マリコは自分に何らかの変化があったことを悟った。

今なら素直に伝えられそうな気がする。

マリコは枕元に置いていたスマホを手に取ると、電話をかける。

「おはよう、土門さん。誕生日のリクエスト、決まったわ」

そう。今日は6月11日。マリコの誕生日だ。

『何だ?』と問い返す声に、マリコは大きく息を吸い込んだ。

「約束。土門さんとの未来の約束が欲しいの」

しばらく無音の電話口から、ようやく聞こえたのは咳払い。

そして…。


マリコはついに手に入れた。何よりも、誰よりも大切な宝物。
それは、臙脂のネクタイがトレードマークの昭和の遺物。



fin.


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