特別編
「よっと!」
掛け声とともに、具材が宙を舞う。白いカフェエプロンを巻き、フライパンを返す男の手さばきは中々のものだ。
おまけに先程から室内は食欲をそそる香りに満ちている。
仕上げに塩コショウをふると、味見に一ついただく。
「うまいっ!そうだ。今度、男の手料理レシピのコラムでも提案してみるかな?」
東亜新聞の記者、土居健作は出来上がった料理を皿に盛り付けテーブルへと運ぶ。
二人がけのダイニングテーブルにはすでに所狭しと料理が並んでた。前菜的な一品料理からサラダ、スープ…。
「こんなもんか…」
すると、インターフォンが鳴った。
「はい、はい」
心なしか足取り軽く、土居は玄関のドアを開けた。
「よお。ちょうどいいタイミングだ。入れよ」
「いい匂いね…。お邪魔します」
仕事あがりの彼女は、いつものようにモノトーンのバンツスタイルだ。
パンプスを脱いでリビングに入ると、今日の主役、沢村舞子は目をみはる。
「すごい…。もしかして、手作り?」
「もしかしなくても手作りだ。冷めないうちに食べよう」
舞子が座ると、土居は冷やしていたワインを開け、グラスに注ぐ。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
カチンとグラスを合わせるが、舞子はグラスに口をつけようとはしない。
「どうかしたか?」
「毒が入ってたりしないわよね?」
「さあ。どうかな」
慣れたもので、土居は小憎らしい嫌味もさらりと躱す。
「あんたが食わないなら、俺が食う」
「た、食べるわよ!」
慌ててワインで喉を潤すと、舞子は並んだ皿に手を付ける。味付けはどれも美味しく、舞子のフォークは止まらない。あっという間に皿は空になった。
いよいよ、次はメインディッシュだ。
舞子の期待に満ちた眼差しに、土居はやや申し訳無さそうに口を開いた。
「悪いが、メインは作ってない」
「え?」
「あんたが決めてくれ。メインを食べるか、それともここで帰るのか」
土居の言葉が何を意味するのか、わからないほど舞子は初じゃない。
「土居さんは私にどうして欲しいの?」
「俺が聞いてる」
「私も聞きたいの」
どちらも譲らない。
「あんたはどうか知らないが、俺は腹が減っているからな。メインを食べたい」
口はへの字に曲げても、視線はまっすぐに舞子を射る。
「一つ聞きたいんだけど、デザートもあるの?」
「もちろん。メインの後でな」
「私こう見えて甘いものには目が無いの。だからメインもデザートもいただくわ」
「女に二言はないな?」
「なによ、それ」
くすっと舞子は表情を和らげた。
土居の鼓動が大きく跳ねる。まさか自分の部屋で、向かい合った彼女のこんな顔を見ることができるなんて。
もう料理どころではない。
土居は立ち上がると、舞子の手を引く。
「なに?」
「……………」
指先を絡ませたまま、二人は寝室へ向かう。
ベットに押し倒され、のしかかる土居を舞子は全力でブロックした。
「ちょっと、メインは?」
「それなら、あんただろ。今から俺が美味しく調理してやるよ」
「な!?帰る!」
「帰さない」
「離して」
「離さない。今夜は、あんたを帰さない。離さない」
「土居さん…」
「世界で一番美味しいもの」
「?」
「それがあんたのリクエストだったよな?」
それは舞子が土居に言ったことだ。
誕生日プレゼントに欲しいものは?と聞かれ、舞子はそう答えた。
「俺にとって、それはあんただ」
「私は食べ物じゃない」
「だが、もしあんたが居なかったら、俺は飢えて死んじまうだろうよ」
それほど渇望している。
望んで、望んで、望んで。
「あんたが、欲しい」
「私の誕生日なのに、土居さんが欲しい物を手にするの?」
「だったら俺の誕生日には、あんたにやるよ」
「何を?」
「俺を」
「いらない」
「そう言うなよ、つれないな」
「だって土居さんは今からもらえるんでしょ?」
顔をそむけ、ぶっきら棒に答える彼女の頬は赤い。
そんな表情と仕草を目の当たりにして、理性の保てる男がいるならお目にかかりたいものだ。
土居は舞子の耳元で囁く。
「いただきます」
「ばか!」
パクリと鼻に噛みついたかと思えば、それ以降は唇も鎖骨もその先も、蕩かすように熱い視線と舌が舞子を捉えて離さなかった。
翌朝、出勤の仕度を始めた舞子に、土居は赤いリボンのついた細長い包みを渡した。
「なに?」
「遅くなったが、締めのデザートだ」
ラッピングを解けば、現れたのは黒いレザーのベルトに、シンプルな羅針盤。
「それなら仕事でも使えるだろ?」
「豪華なデザートね。いいの?」
「もらってくれ」
「ありがとう」
舞子はさっそく左手にはめると、土居の家を出た。
だが、この時はまだ、彼女は気づかずにいた。
羅針盤の中央に埋め込まれた小さな天然石。
月のパワーを宿したそれが、6月の誕生石だということに。
fin.