特別編
「よし!」
6月11日。
鏡の前でジャケットの襟を正すと、資料が詰まったバッグを手に玄関へ向う。
「お母さん!」
「夕子」
娘と母に呼ばれてスーツ姿の女性が振り返ると、パステルカラーが彼女を迎えた。
「ハッピーバースデー!」
「なっちゃん、ありがとう!」
嬉しそうに花束を受け取ったのは、東京地検・霞夕子検事。
いつも背筋を伸ばし犯罪に向き合う彼女も、娘、夏子の前では柔らかな表情を見せる。
「これはお祖母ちゃんと一緒に選んだの。はい」
白いレースの瀟洒なハンカチ。
これなら仕事でも使えるだろうと、夏子は考えたのだ。
「うれしいわ。さっそく使ってもいいかしら?」
「うん!」
夏子は恥ずかしさと嬉しさが混ざったような笑顔で答えた。
「なっちゃんと一緒に居るみたい。お母さん、仕事頑張るわ」
「いってらっしゃい」
「気をつけるのよ」
手をふる娘の後ろで夕子の母、彩子もまた、自分の娘を心配そうに見送る。
「母さん、ありがとう。行ってきます!」
玄関を出ると、彼女の表情は一変した。
女検事、霞夕子の顔へ。
「検事、おはようございます」
「おはよう。桜木くん」
毎朝夕子を迎えにやってくるのは、事務官の桜木だ。
彼が車の扉を開くと、夕子は後部座席に乗り込んだ。
「あら?」
隣の席に置かれていたのは小さなアレンジメント。
「桜木くん?」
「検事、お誕生日おめでとうございます」
「まあ…。ありがとう」
「すみません、他に気の利いたプレゼントが思い浮かびませんでした」
「ううん。嬉しいわ。さっそくデスクに飾りましょう」
「喜んでいただけてよかったです」
普段あまり感情の起伏を見せない彼だが、このときはほっとした声を滲ませエンジンを始動した。
接見の合間に、夕子はスマホを確認する。
いくつか通知はあるが、どれも夕子が待っているものではなかった。
「…………」
落胆のため息を、耳ざとく桜木が聞きとめた。
「検事、どうかされましたか?」
「いいえ。何でもないの」
「もしかして、学校から連絡が?」
「あ、違うわ。夏子のことじゃないし、本当に何でもないのよ」
「そう、ですか?」
桜木は腑に落ちないようだったが、ノックの音にそれ以上の詮索は打ち切られた。
「どうぞ」
「失礼します」
現れたのは、捜査一課の
「占部警部?どうされました?」
「あ、いや…」
赤いネクタイとサスペンダーがトレードマークの警部は、今日は歯切れが悪い。
「あの、うちの奴ら…から……です」
占部はやたらと可愛らしい紙袋を夕子のデスクに置いた。
「?」
中には、袋と同じキャラクターの描かれた缶が入っていた。
「占部警部、これは?」
「クッキーです。検事。今日、誕生日でしょう?」
「ありがとうございます。私、クッキー好きなんです」
「そりゃ、よかった」
「一課の皆さんによろしくお伝え下さいね」
「は、はあ」
夕子は気づかないが、本当は誰からのプレゼントなのか、桜木にはピンときた。
「素直じゃない」
ぼそっと呟いた声に気づき、占部は桜木を睨みつける。「喋んじゃねーぞ」の無言の圧をかけ、占部は一課へ戻っていった。
「桜木くん?どうかした?」
「何でもありません。折角ですから召し上がりますか?」
「そうね」
「紅茶をいれます」
「ありがとう」
次の接見まで、ひとしきり夕子の部屋は甘い香りに包まれた。
「ただいま」
「おかえりなさい。お疲れさま」
遅い時間に帰宅した夕子を彩子が出迎えた。
「なっちゃんは?」
「もう休みましたよ。夕子、ご飯は?」
「食べるわ!お腹ペコペコなの」
「はいはい。ついでだから知行さんの分も用意するわ」
「知行さん、いないの?」
「檀家さんの法事の後、どうしても残ってほしいと頼まれたんですって」
夕子の夫は、霞家を継いで寺の住職をしている。
「そう。でもそれじゃぁ、ご飯は食べないかもしれないわね」
「夜食におにぎりくらいは用意してあげましょう」
母は台所へと消えていった。
夕子は部屋着に着替えると、夏子との連絡ノートを確認する。仕事柄、どうしても今夜のように帰宅は遅くなってしまう。だから夕子は夏子とのコミュニケーションにこのノートを活用していた。
今日学校であった出来事や、買い足して欲しい文房具などに一通り目を通すと、彩子に呼ばれた。
「母さん、ありがとう」
温かいお味噌汁におにぎり。
夕子の元気の源だ。
「片付けはお願いね。もう眠くて…」
「わかったわ。おやすみ、母さん」
彩子は小さくあくびをしながら、「おやすみ」と手を振った。
「知行さん、遅いわね…」
時刻はもうすぐ11時になろうとしていた。
夕子は夫を待つうち、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。
「ただいま…」
小声で玄関を開けると、知行は静かに廊下を進む。
寝静まっているだろうと思っていたが、居間から明かりが漏れていた。
「夕子?」
知行が部屋をのぞくと、夕子は机に突っ伏して眠っていた。
疲れているのだろう、無理もない。もし自分を待ってくれていたのなら申し訳ないことをした。
知行は寝室からブランケットを持ってくると、そっと妻の肩に掛けた。
「ん…。おかえり、なさい」
「ごめん。起こしてしまったかい?」
「大丈夫。遅かったのね」
「飲みすぎて具合が悪くなってしまった方がいてね。介抱を手伝っていたんだよ」
「そう。大丈夫だったの?」
「うん。ご家族が来てくれてね。夜間救急へ連れて行ったよ」
「大変だったのね、お疲れさま。おにぎり食べる?」
「夕子が用意してくれたのかい?」
「母さんよ」
夕子は申し訳無さそうに眉を下げる。
「そうか…。悪いけど今日はもうお腹いっぱいなんだ。明日の朝いただくよ」
「じゃあ、片付けるわね」
立ち上がろうとした夕子を、知行が止めた。
「知行さん?」
知行は壁の時計を見た。
「ギリギリになってしまったけど、おめでとう。夕子」
「……………い」
「夕子?」
「遅い、知行さん。ずっと待ってた…」
夕子は知行の僧衣をぎゅっと掴んだ。
「ごめん。実はプレゼントもまだ用意できてないんだ。ダメな亭主で呆れたかい?」
夕子は首を振る。
「私は知行さんとなっちゃんと、母さんと、皆がいてくれればそれで十分…」
ふわりと、夕子の体をお線香の仄かな香りが包んだ。
誕生日最後の一秒。
カチッと時計の針が重なる。
そして、いつもは被疑者を問い質す女の唇と、経典を唱える男の唇もまた、今だけは静かに重なり合うのだった。
fin.