道知辺
警察協力受難者協会の評議員、佐久間はこの日ふらりと寄った立ち飲み屋で、珍しい人物を目撃した。
「土門?」
この立ち飲み屋は錦市場にある店で、ダイエット菌事件の際に佐久間、土門、マリコで顔を合わせた場所だ。だから土門がいたとしても不思議はない。しかし佐久間が土門に気づいたとき、彼は女性と深刻そうに話し込んでいた。
相手がマリコでないことはわかるが、こちらに背中を向けているので佐久間が知る人物かどうかはわからない。
もう土門は部下ではない。余計な詮索はするまい…そう割り切るが、どうしても耳が会話を拾ってしまう。
異動……警察学校………
刑事を辞めて……………
この機に、家庭………
切れ切れに届く単語に佐久間は驚いた。
推察するに、土門は警察学校へ異動することになり、刑事を辞めて家庭を持とうとしているのらしい。
佐久間は、もし土門が結婚するなら相手はマリコだろうと勝手に思っていた。もちろんそういったことには疎そうな二人だから、結婚という確率は低い、とも思っていたが。
どうやら佐久間の勘は外れていたらしい。
相手の女性は一体誰なのか…。
じっと目を凝らしていると、一瞬女性の横顔が見えた。
「あれは…真田くんか!」
佐久間は真田藍子を知っている。
優秀な捜査員だったことも、一課を異動した理由も。
「そうか。あの二人は確かに合同捜査でよく一緒になっていたな。もしかしてあれからずっと続いていたのか…」
藍子の家庭事情を知る佐久間は、コップの底に少しだけ残っていた酒を飲み干す。
苦労続きの藍子に土門のような伴侶ができるのは喜ばしいと思う反面、彼女は知っているのだろうかと、佐久間は堅物な科捜研の女のことを思った。
「俺が口出しすることじゃないな」
佐久間は二人の邪魔にならないように、そっと店を出ていった。
「そっか。大きな決断を迫られてるわけだ」
藍子は土門の話をひと通り聞き終えると、頷き腕を組んだ。
「ええ」
「……本当に決められないの?」
「え?」
その質問に、土門は虚を突かれた。
「人ってさ、誰かに相談するときには、大抵どうしたいのか何となく決まっているんだよね。だけど不安だから、他人からの後押しや、同調が欲しくて人を頼るんだよ。アンタの場合はどうなの?」
「自分は…」
土門はその先が続かない。
「私が思うに、アンタはまず相手の女性との今後を決めない限り、仕事も決まらないんじゃない?もし結婚するなら、危険な刑事より警察学校の教官のほうが、そりゃあ、相手だって安心でしょうよ」
「やっぱり、そう…ですよね?」
「…っていうのはさ、一般的な考えでしょ?」
「?」
「彼女は違うかもしれないよ?それに、酷いこと言うようだけど、彼女のほうは結婚なんて考えないかもしれない。別にプロポーズとかしてるわけじゃないんでしょ?」
「…はぁ」
「だったら、まずは彼女に話してみたら?それから決めても遅くないと思うよ。第一、今のアンタじゃ、どっちを選んでも後悔しそうだ」
藍子は苦笑する。
「…と、悪いけどそろそろ帰らなきゃ」
「すみません、忙しいのに」
『アンタほどじゃないわよ!』と藍子は笑う。
「私はどっちを選んでも、アンタの選択を支持するよ。もしまた会う機会があれば、ゆっくり話を聞かせて。それじゃね」
「あ、支払いは自分が…」
「何言ってんの。腐っても私のほうが先輩よ。気張れよ、後輩!」
ニカッと笑うと、藍子はエコバックを肩にさげ、ひらひらと伝票を振りながら帰っていった。
確かにな、と土門の目はジョッキの側面を流れ落ちる結露を追いかける。
今から土門がしようとする選択は自分の残りの人生を左右することだ。そして土門にはその時間を共に歩みたい人がいる。だったら、その相手はどう思うのか…。
「話してみるか。………榊に」
「よし」と気合いを入れると、残りを飲み干し、土門も店をあとにした。