道知辺



その晩、土門の姿は以前マリコと訪れた立ち飲み屋にあった。
本当はもう少し静かな場所が良かったのだが、相手がここを指定してきたのだ。相談に乗ってもらう身としては我儘は言えない。

「土門!」

「久しぶり!」と気さくに声をかけてきたのは、土門と同年代の女性だ。買い物帰りなのか、大きなエコバックを肩にかけている。

真田さなだ警視。お疲れさまです。今夜は自分のためにお時間をとっていただき……」

「ストップ、ストップ!」

真田と呼ばれた女性は慌てて土門の言葉を遮る。

「ちょっとぉ。こんな場所で階級で呼ばないでよ。恥ずかしいじゃない!」

「はぁ…」

「今まで通りでいいわよ。アンタとはいくつも事件を追った仲じゃない」

「わかりました。真田さん」

「そうそう。さてと、まずは一杯いいかな?」

「どうぞ」

「すいませーん!」

彼女は店員を呼び止めた。



しばらくして運ばれてきたジョッキを手に、二人はグラスを合わせた。

「久しぶりの再会を祝して。乾杯!」

ゴクゴクと半分ほどを喉に流し込み、二人は同時に「ぷはーっ」と息をはく。

「それにしても驚いたよ」

「?」

「私のことを覚えてくれていたんだね」

「当たり前じゃないですか!」

土門は鼻息荒く抗議した。

豪快にジョッキを傾けるこの女性は、真田藍子あいこという。土門より2つ先輩だ。藍子は学生時代クレーン射撃の名手で、オリンピック候補にまで名前が上がったこともある。その経験と身体能力を買われ、彼女はすぐに刑事課へと配属された。当初は射撃の腕だけ、と見下す仲間もいたらしい。しかし藍子の能力はそれだけではなかった。彼女は洞察力に長け、推理力も優れていたのだ。数々の事件解決に貢献し、あれよあれよという間に藍子のデスクは班長のすぐ目の前にまで移動していった。

その頃、ようやく所轄の刑事課へ配属された土門は、とある事件で藍子たちと合同捜査を行うことになった。下っ端で使いっぱしりの土門とは違い、藍子はすでに班長の片腕として捜査の中心にいた。土門は正直にいって、面白くなかった。そう歳も変わらない女の癖に…、そんな捻くれた感情が藍子に沸いていた。
だが、直に土門も納得した。
藍子は時に大胆な推理を披露するが、その裏には緻密な分析と、膨大な調査があった。捜査員からもたらされる資料を熟読し、どんなささいな情報も切り捨てはしない。毎晩一人遅くまで調書を読み込む姿を土門はよく目にした。そうした努力の積み重ねと、藍子自身の能力が、ともすれば滞りそうな捜査へ道筋を示してくれるのだ。

それ以降も、土門は藍子と捜査本部で顔を合わせる機会があった。次第に挨拶を交わすようになり、数人で立ち話をするまでの仲になっていた。
何度目かの合同捜査で、土門は藍子たち本部の捜査員と一緒に動くように命じられた。後で知ったことだが、藍子が口添えをしてくれたらしい。土門の刑事としての能力を評価してくれていたのだ。
しかし、この捜査が土門と藍子にとってターニング・ポイントになった。

捜査の真っ只中、それは起きた。

「真田!」

緊迫した声で藍子を呼んだのは、当時の班長だった。

藍子は班長から何事が伝えられると、真っ青な顔になり、そのまま帰宅してしまった。そんなことは初めてだった。捜査中、藍子はほとんど泊まり込みで捜査に参加していたのだ。しかしその日を境に、本部に藍子が戻って来ることはなかった。


「真田さん、どうしたんですか?」

事件が無事に解決し、捜査本部が解散となるタイミングで、土門は本部の捜査員に尋ねてみた。
すると人気のない廊下へ連れて行かれた。他言は控えるように、と前置きされた後で、事情を教えてくれた。

藍子には息子がいた。夫とは数年前に死別し、それからは実家の親の手を借りながら、子育てをしていたらしい。ところが、藍子が慌てて帰宅したその日、息子が交通事故に遭ったのだ。そしてそれ以降、息子は車椅子生活になってしまったそうだ。

「真田は内勤へ異動願を提出した。息子の世話をするためだ。急なことだが、事情が事情だからな…来月から警務課勤務になるそうだ」

「そんな…」

「あれだけのキャリアを惜しいことだよ」

そこまで言わしめた藍子だが、しかし彼女は間違えることはなかったのだ。
自分にとって何が大切で、今自分がなすべきことは何か、を。

そんな彼女だから、土門は今の自分の揺れる気持ちを聞いてもらおうと思ったのだ。




「息子さん、今はどうなさっているんですか?」

「ああ、うん。おかげさまで、ようやく就職先が見つかったんだ。春からいよいよ社会人」

「そうですか。おめでとうございます」

「ありがとう。当時はアンタにもきちんと説明しないままに戦線離脱しちゃったもんね。迷惑かけて申し訳ない」

藍子はぺこりと頭を下げる。

「そんなこと…。大変でしたね…」

「そうだね。最近は大分理解が進んできたけど、やっぱりうちの息子は健常者とは違うからね。あ、別にそれを悲観しているわけじゃないよ。あくまで事実としてね。息子もそれはわかっているから、採用してくれた会社には親子で感謝してるんだ。これからまだまだ苦労はあるだろうけど、後は自分で頑張ってもらうしかないよね」

「私のほうが先に死んじゃうんだしさ」などと藍子はあっけらからんと笑う。

「私のことはもういいよ。ええと、何だっけ?何か相談があるとか言ってなかったっけ?」

「ええ。実は…」

ようやく土門は本題を話し始めた。


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