オパール、一皮脱ぐ。



2月22日の夜。土門は一人、microscopeの扉を叩いた。

「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?」

マスターは連れが居ないのを見るとそう尋ね、いつものカウンター席へ案内しようと手を差し向けた。

「いや。今夜は一人です」

「お珍しいですね」

「振られました。あいつには俺より大切な恋人がいるらしくて」

自嘲する土門を、マスターは自分の目の前の席へ導く。
そして何も聞かずに、土門の前に2つのグラスを置いた。
1つは土門がいつもオーダーするウィスキー。もう1つは色鮮やかなカクテル。

「マスター?」

「本当は榊さまも、土門さまと一緒の時間を過ごしたいと思っているはずですよ」

ウィスキーの隣には、ここには居ないカクテルの『マリコ』。

「どうでしょう」

「ごゆっくり」

それ以上余計な口は開かず、マスターはグラス磨きに専念した。

『ニャン!』

土門がグラスを傾けていると、スラックスの足元でよく知る鳴き声が聞こえた。

「オパール。今夜は榊はいないぞ」

『ウニャ』

珍しく、オパールは土門の膝に飛び乗った。
そして『ニャー、ニャァー』と鳴きながら、しきりとスツールの背もたれを叩いている。

「ああ!そうか」

土門はオパールを隣の席に移すと、スツールを降り、後ろのハンガーにかけたジャケットのポケットに手を入れた。

「お前、よくわかったな」

苦笑い半分、感心半分の土門の手には猫缶が2つ乗っていた。

「今日は猫の日なんだろう?ほら。吹と1つずつだぞ」

『ニャア〜♪』

やけにご機嫌な声が、土門の刑事の勘を刺激した。

「お前…。全部食うなよ?」

怪しい…と眉を潜める土門に、オパールは『ウ、ウニャウニャ』と鳴き声を上げる。
その姿はまるで図星をつかれて焦った人間のようで、土門だけでなく、見ていたマスターまでも吹き出した。


「今夜は吹の姿が見えないな。散歩か?」

『ニャ』

「吹は元気にしてるか?」

『ニャ』

「そうか。吹の面倒、頼むな」

『ニャン!』

隣同士のスツールに腰掛けた一人と、丸くなる一匹の絶妙な会話は微笑ましいほどだ。

「なあ、オパール」

『ニャ?』

「俺は今夜、あいつに振られちまった。俺との約束より仕事が大事らしい」

『…………』

「実はもう…かれこれ2週間以上になるかな。二人で会えていなくてなぁ。自分でも女々しいと思うが、今夜くらいは…と期待していたんだ」

『ウニャン』

猫相手に愚痴ってどうする…いつもだったらそう思うだろう。
だが、今夜はなぜかそんな気は起きなかった。
土門は自分でも不思議なくらい素直に胸の内をオパールへ吐露していた。

「別に抱きたいわけじゃない…いや、もちろん少しはそういう下心はあるさ。男だからな。だけどそれより顔を見て、声を聞いて、隣にあいつを感じたいんだ。それだけで十分満たされるんだ。なのに…あいつは違うんだろうか。結局は俺の一人相撲なのか…」

土門はウィスキーを一気に飲み干すと、それ以上は口を閉ざしてしまった。
そしてもう一杯のおかわりも無くなると、土門は帰っていった。

残されたオパールの前には『マリコ』が手つかずで残ったまま。グラスの周囲についた結露が、照明を反射してキラリと光る。その色はオパールの瞳と同じ。七色のプリズム。




ようやく仕事を終えたマリコが帰宅したのは深夜だった。好きな仕事とはいえ、段々無理は利かない年齢になっていた。疲れた体を引きずり部屋の前につくと、扉の前に黒い影が伏していた。

「あら?オパール?」

『ニャア!』

「どうしたの?私に何か用?…キャッ」

オパールは突然マリコに飛びついた。慌てたマリコは間一髪、オパールを抱きとめた。

「どうしたの?…………オパー……ル?」

オパールは無言でマリコをじっと見ていた。くるくると色彩の変化する瞳がマリコの視線を捉えて離さない。
しばらくそうしていると、『ニャン』とオパールが鳴いた。その声にマリコははっと我に返る。

「オパール?」

ひらりとマリコの手をすり抜けると、オパールはそのまま闇夜に紛れてしまった。

「どうしたのかしら…」

訳がわからず、マリコはしばらくオパールが消えた方角を見つめていたが、やがて諦めて部屋へと入っていった。


その夜。マリコは、夢を見た。

夢の中で、土門が誰かに何かを話していた。相手が誰なのか、どうしてもマリコにはわからない。けれど、徐々にその会話の内容が切れ切れに聞き取れるようになった。


『俺より大切な恋人がいるらしくて…』
『顔を見て、声を聞いて、隣にあいつを感じたい…』
『あいつは違うんだろうか…』
『俺の一人相撲なのか…』

そこでマリコは覚醒した。


「夢…よね?」

目覚めても尚、リアリティーのある記憶にマリコは戸惑った。
昨夜土門との約束を反故してしまったことを、実はマリコもとても気にしていた。彼女自身も目の回るような忙しさに身も心も疲弊し、本当は土門の優しさを何よりも求めていたからだ。

マリコこそ、目尻に皺をよせた優しい笑顔を見たい。
低く笑う声で、優しく名前を呼ばれたい。

触れたい。
触れられたい。
土門さんに…。

そう自覚すると、もうマリコは居ても立っても居られなかった。布団は起きたまま、パジャマは脱ぎ捨てたまま、洗濯はランドリーバックにパンパン、それでも構わない。マリコは身支度もそこそこに、家を出た。
出勤時間までは、まだ2時間もある。




寝ているかもしれない相手を気遣い、マリコは合鍵を使ってそっと玄関を開けた。音を立てないように靴を脱ぎ、廊下をすり足で進む。リビングを覗くと、人影はなかった。

それなら寝室へ…と一歩下がったとき、トンと背中が壁にぶつかった。

「え?」

こんなところに壁なんてなかったはず…。
そう思ったマリコの体は背後から捕らえられた。

「早朝から忍び込むとは、随分大胆な泥棒だな」

「土門さん!起きていたの?」

「ヒゲを剃っていたんだ。冗談はさておき、こんな時間に一体どうしたんだ?」

「………………」

「榊?」

いざとなると、マリコは口ごもってしまった。もしかして、自分はとんでもなく恥ずかしいことをしているのではないか…。

「あの、私…………」

「ん?なんだ?なんでも言ってみろ」

優しい声色で促されて、マリコは胸が苦しくなった。

「…会いたかったの」

「榊?」

マリコが振り返ると、土門は驚いた顔をしていた。

「ごめんなさい。昨夜の約束だって私から断ったのに…自分勝手よね」

「アホぅ。俺だって同じ気持ちだ」

「土門さん…」

「やっとお前に触れられた」

土門はマリコを抱きしめると、髪に鼻を埋める。
マリコのシャンプーの香りが土門の体を熱くした。

「残念だが、今は時間がないな。だから榊、今夜は体を空けておけ」

「………うん」

自信なさげなマリコの頬を土門は両手で包む。

「無理でも連れ帰る。わかったな。いいか、お前の恋人は“仕事”じゃなくて“俺”だ!」

何か言おうとしたマリコの口は問答無用で土門に塞がれた。
離れては重なり、まるで磁石のように二人は引き合う。あと少し…時間が許すその時まで。




一方、microscopeでは事件が勃発していた。

『ウニャァァァァァ!!!!!』

空の皿を前に、ギャンギャン鳴き叫ぶのは漆黒の仔猫。

『…………………』

対してうなだれているのは、飼い主に叱られた看板猫。

「オパール。この猫缶は吹と1つずつ、と土門さまに言われていましたよね?約束を破るのはよくありませんね…」

お仕置きとして、オパールは3日間のおやつ抜きが決定した。
マスターはこうした部分の躾は厳しい。


ところが。
その夜、仲良くmicroscopeを訪れたカップルの口添えもあり、オバールは今回だけはお咎めなしとなった。
そして再び差し入れられた猫缶は、今度こそ二匹の胃袋に無事収まったのだった。



fin.


1/1ページ