you are my …



ふと、マリコは足を止めた。
縁側から人の声がする。来客だろうか。

『薫くんも並川なみかわのおじさんには世話になっただろう。悪い話でもないし、考えてみてくれんか?』




マリコは初老の男性とすれ違う。この男性がさっきの声の主だろう。

「こんにちは」

引き戸を開けながら声をかけると、廊下の奥から足音が聞こえる。
やがて。

「やあ、マリコさん。いらっしゃい」

優しい笑顔で迎えてくれたのは、マリコの大好きな陸軍少尉。

「土門少尉、お客様だったんですか?」

「ん?」

縁側のほうから声が聞こえました。さっきそこで男性の方とすれ違いましたし

マリコは深い意味もなくたずねたのだが、少尉は言葉少なに「何でもないですよ」と答えたきり黙ってしまった。
慌てたのはマリコだ。
誰にだって言いたくないこと、知られたくないことはある。
少尉のそういう部分に触れてしまったのかもしれないと、マリコは話題を変えた。

「今日はどこへ行きますか?駅前に新しいカフェができたそうですよ。それとも何か観たい映画があれば…」

「マリコさん」

少尉はマリコの手を引き、玄関を上がらせる。

「はい」

「あなたはどちらに行きたいですか?」

「あ、私はどちらでも…」

「そうですか。それなら」

そう言うと、少尉はさらにマリコの手を引き廊下を進んでいく。やがて一番奥の部屋へマリコを導くと、ピシャリと障子戸を閉めた。

「土門少尉?」

「今日はここにいてください。自分の側に…ずっと」

「しょう……い?」

土門少尉はこれまでマリコが見たことのないような昏い瞳をしていた。

――――― 怖い。

マリコは本能的にそう感じだ。
けれど同時に『今ここを離れては絶対にいけない』、そうマリコの心が告げていた。




気だるい眠りから覚めれば、部屋には西日が差し込んでいた。
あれから何時間経つのだろう…。
幾度も少尉に求められ、意識を飛ばしてからのマリコに記憶はない。それでも体は清められ、真新しい浴衣を着せられていた。
無意識のうちに全てを少尉に晒してしまったことにマリコは周知を覚えたが、それでも疲れた体をようやく起こした。

隣に少尉の姿はない。
寝乱れているのはマリコの側だけで、布団の半分はきれいに整えられていた。

「少尉。……どこ?」

家の中はしん、と静寂に包まれていた。廊下を軋ませ、マリコは仏間の障子を開いた。
すると縁側に見慣れた背中があった。いつもは広く、大きく感じるその背中が、今日は小さく、頼りなく見えた。
マリコはそっとその背中を抱きしめた。

「マリコさん。…………すまない」

西日が邪魔をして、マリコからは少尉の表情がわからない。

「あなたに無理をさせてしまった。体は大丈夫だろうか?」

「少尉?」

「あなたのことを考えもせず、自分の欲望のままに…。自分は酷い男だ」

「………………?」

うまく言葉にはできない。
けれど、マリコには少尉の心が苦しみに押しつぶされそうになっている…そんな風に思えた。

「私は大丈夫です。少尉は酷い人なんかじゃないです。それより、私……嬉しいです」

「え?」

ようやく土門少尉はマリコと向き合った。

「少尉はとても自分に厳しい人です。でもそのあなたが、私には感情をぶつけてくれた。少尉。何か悩んでいるのなら聞かせてください。私なんかでは役に立たないかもしれないけれど」

「マリコさん」

少尉はマリコの体を掻き抱いた。

「やはり、自分にはあなたしかいない。あなたしかいないのに…どうすればよいのだ」



しばらくマリコを抱きしめた後で、ようやく土門少尉は悩みを口にした。

「自分の父には、並川士郎しろうという友人がいました。並川氏は父とは学友であり、ロシアとの戦いでは共に戦火をくぐり抜けた戦友でもあるそうです。自分の父が無くなり、私が途方にくれていた時、並川氏は親身になって色々と相談に乗ってくれました」

「恩ある方なのですね」

「はい。その並川氏が先ごろお亡くなりになりなったんです」

「まぁ」

「並川氏は早くに奥方を亡くされ、独り身だったのですが…内縁の女性との間にお嬢さんが生まれていたらしいのです」

「少尉はご存知なかったのですか?」

「ええ。初めて知りました。しかもその母親は、今は行き方知れず。並川氏が亡くなったことで、そのお嬢さんは天蓋孤独の身の上になってしまったそうなのです」

「それは、お気の毒に」

「問題はそのお嬢さんなんです」

「え?」

「マリコさんがすれ違った男性は父と並川氏の幼馴染みで、私に並川氏のお嬢さんとの縁談話を持ってきたんですよ」

「縁談…ですか」

土門少尉はうなずく。

「身寄りのない彼女のことを見かね、独身の自分の元に嫁がせようと考えたんでしょうね」

「………………」

マリコは何も答えられずにいた。

頼る人のいない女性のことは心から気の毒だと思う。それは本心だ。
けれど、だからといって土門少尉との結婚は……。

「マリコさん?」

「あ、あの。私…え?」

マリコの視界の先で、土門少尉の顔がぼやけていく。
なぜだろう…訳がわからず首を傾げると、ポタポタと膝の上に置いた手の甲が濡れていく。

土門少尉はマリコの頬を優しく拭う。

「マリコさん、泣かないで。自分は添い遂げるならあなたとと決めている。その気持ちは何があっても絶対に変わらない。どうか自分を信じてほしい」

マリコは少尉の首に腕を回して抱きついた。

「信じています。信じています、少尉」

土門少尉はマリコの項に顔を埋める。そして自らが残した愛の証が消えないように、もう一度鮮やかに色づけた。


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