殺意の善光寺



ここ数日長野県では大きな事件も発生せず、県警捜査一課千津川せんづがわ班の面々は久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた。

「警部。今夜帰りに…どうですか?」

くいっと動く指の間には、まるで猪口が見えるようだ。

「いいですね。しかし、鶴さん。こんな日ぐらい早く帰らないと、奥さんに怒られるんじゃないですか?」

千津川警部は笑いながら相棒の鶴井つるいをからかう。この二人、年齢はかなり離れているが、千津川が警部へ昇進する以前からウマがあった。ことに千津川は、鶴井の刑事としての手腕に全幅の信頼を寄せている。

「何を言うんですか!こんな日だからこそ、警部を誘ってるんですよ。大体いつも電話がかかって…………」

プルプルプルとコール音がけたたましく鳴り出した。

「言わんこっちゃない…。はい、捜査一課」

鶴井は話を聞きながら素早くメモを取ると、受話器を置いた。

「殺しです。善光寺さんで」

全員がピリリとした空気をまとう。殺しという事件もだが、善光寺という場所も問題だった。長野県、いや国内でも有数の有名寺社での事件。そして何より、長野県民は善光寺に「さん」付けするほどの深い信仰と敬愛を抱いているのだ。

「みんな、行くぞ!」

「「「「「はい!」」」」」

千津川の掛け声に、みなは一斉に立ち上がった。



現着してみれば本殿のさらに奥に建立された忠霊殿の裏手、草の茂みに遺体は倒れていた。争ったような跡も、血痕も見当たらない。
千津川は注意深く遺体を観察する。

「警部」

遺留品を調べていた鶴井が、シルバーのトレイを手に千津川の隣に並んだ。

「被害者は坂井田直哉さかいだなおやさん28歳。免許証の住所によると、京都の人間ですな」

「京都?」

「はい。それと、ガイシャのスマホのカレンダーに、えーと。北本きたもと、警部に説明してくれ」

千津川班の一人、北本刑事は坂井田のスマホのカレンダーアプリを起動した。今日の日付をタップすると詳細が現れる。

「坂井田さんは今日の予定をここに書き込んでいました」

千津川はその画面を見ると眉を潜めた。

「下京区、善光寺?」

「はい。調べてみたら、確かに京都の下京区にも善光寺という寺がありました」

「なに?それじゃあ、この被害者は京都の善光寺へ行くはずが、長野の善光寺に来てしまった…ということか?」

「まさか…。さすがにそんなことはないと思うんですがね」

鶴井も首を捻る。

「いずれにしても。まずは所轄と協力して周辺の聞き込みだ」

「はい」

北本はすぐに動き出した。

「警部。京都府警に被害者の照会はしますか?」

「ええ、お願いします。あ、いや。鶴さん、私がしますよ」

「警部が?」

「久しぶりに彼と話してみたいんです」

「彼?……ああ!」

千津川のいうところの“彼”に思い当たった鶴井も、「そうですな」と懐かしそうにうなずいた。


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