殺意の善光寺
その後、千津川警部と鶴井の取り調べを受け、簑島すみれはすべてを自供した。
交換殺人だと思われていたが、実際には2件の殺人は簑島すみれによる犯行だったことが判明した。
夫の浮気に辟易していた彼女は、同じコミュニティーで夫のDVを恐れる坂井田茉由と親しくなった。夫から開放されたいと繰り返す茉由に、すみれは交換殺人を持ちかけた。初めはそれぞれが相手の夫を殺害するつもりだったようだが、どうにもすみれは茉由のいい加減で小心な性格に不安を覚えた。失敗して芋づる式に捕まることは絶対に避けたい。だから、殺害計画はすべてすみれの手によるものだった。
すみれの夫、冬樹は外面はいいが、女関係にはひどくだらしない男だった。不倫だけでなく、風俗通いや売春も派手に行っていた。
そこですみれは、以前夫の浮気調査を頼んだ際に手に入れた証拠写真を茉由に渡し、それをネタに冬樹を揺すらせた。写真を取り戻したければ、京都で取引だと持ちかけたのだ。冬樹はまんまとそれに応じた。妻には仕事だと嘘をついて京都へ出発する前の晩、すみれは夫の荷物に細工した。
冬樹は毎昼食後、持病の薬を飲んでいる。しかもきちんと曜日ごとに収納ケースを分けているのだ。だからすみれは明日夫が飲む薬のカプセルに毒物を仕込んだ。カプセルが胃で溶け、ちょうど取引の時間帯に死亡する。実際にその通りとなった。
千津川は改めて簑島すみれの経歴書に目を走らせる。
「なるほど。薬学部のご出身でしたか。必要な薬品はあなたの指示の下、坂井田茉由が盗み出した?」
「ええ、そうよ」
「ご主人のスマートフォンのスケジュールアプリには善光寺の画像がありましたが、これは?」
「私が前もって保存しておいたの。あの人、スマホのスケジュールなんて使ったことないと思いますよ。いつも音声メモを残していたから。女との約束もね…」
盗み聞いたことがあるのか、すみれは眉間にシワを寄せた。
「ご主人の殺害に関して確認したいことは以上です。この事件については京都に送検後、また詳しく話してもらうことになると思います。それでは坂井田さんの事件についても聞かせてください」
「坂井田にはクスリを買わないか、と持ちかけたのよ」
「坂井田さんが売人だという情報はどこから?」
「もちろん、茉由からよ。坂井田からは、始めは京都での取引を要求されたわ。下京区の善光寺で、って」
「その情報が彼のスマホに残っていたんですな」
鶴井は顎を撫でながら、ようやく合点がいった様子だ。
「京都にも善光寺があるなんて初めて知ったわ。でも坂井田がよりにもよってそこを指定するなんて、もう運命だと思った。私達はくだらない夫から開放されていいんだと。赦されたと思ったわ」
すみれは、どこか陶酔した様に話す。
「でも茉由の話だと、あの男…あちこちの組から目をつけられているんでしょう?そんなときに怪しい行動を見られたら大阪湾に浮かぶかもしれないわね、って言ったら怯えてちゃって。言うとおりに長野までのこのこやって来たわ。顔は見られたくないから、取引は善光寺の住職が留守の晩にすべて電話で指示したの。坂井田は白い粉…中身は砂糖よ、それが入ったカバンを見つけると、案の定中身を確かめたいと電話ごしに言ってきた。私がサンプルに用意しておいた小袋があると伝えると、あの男はそれを口にしたんでしょうね。中身が毒物とも知らずに。しばらく悶絶する声が続いた後は、何も聞こえなくなったわ」
「坂井田が発見されたとき、カバンなんてなかったはずだが」
「カラスか野良犬の仕業でしょ。片付けてくれて助かったわ」
「もし見つかっていたらどうするつもりだった?」
「別に。見つかっても構わないわ。私と坂井田個人との接点は何もない。連絡用に準備したスマホも、もう捨てちゃったわ。計画変更を余儀なくされた場面もあったけど、私にたどり着く証拠はなかったはずよ。それなのに、どうして私に目をつけたの?」
簑島すみれの興味は、ただそこだけに向いているようだった。
自分の犯した罪も、これから先に待ち受ける苦難も、彼女は何もわかってはいない。
千津川はすみれの眼前に指を2本立てて見せた。
「あなたの誤算は2つ。1つはこの長野と京都で事件を起こしたこと。もう1つは非常に優秀な刑事を殺しそこねたことでしょう」
「なんですって!あの刑事、生きているの!?」
簑島すみれは憎々しげに目の前の千津川を睨みつけた。
「茉由になんて始末を任せるんじゃなかった。ゴミ捨てひとつ満足にできないなんて…ほんっとに使えない女ね!あいつらは今どこにいるの?京都府警?」
――――― バンッ!
千津川はこみ上げる怒りのままに、デスクを平手打ちした。
「な、なによ」
「坂井田茉由は逃走中ですよ」
それだけ言うと千津川は立ち上がり、じっと簑島すみれという女を凝視した。
『哀れな女だ』
すみれに千津川の心の声が聞こえたかはわからない。しかしその瞳に浮かぶ憐憫の色を読み取ったとき、彼女は初めて千津川から顔を背けた。
「本来は分別のある、聡明な女性なんでしょうな」
「ええ。そんな彼女のあんなふうに変えてしまったのは夫の浮気…」
「少しずつ壊れてしまったのかもしれませんね」
「鶴さん?」
取調室を出ると、二人の間には事件解決の清々しさよりも、どこか重い空気が垂れ込めていた。
「牢獄のような家で一人、いつ帰るともしれない夫を待ち続けるうちに、彼女はゆっくりゆっくり…自分でも気づかないうちに心を病んでいってしまったのでしょう」
「坂井田茉由の存在が、そんな彼女の狂気を呼び起こしてしまったのかもしれませんね」
「彼女達は加害者であり、被害者ですな」
「同じような苦しみを抱える女性は大勢いるでしょう。これから我々に求められているもの、鶴さんは何だと思います?」
「行政の介入…なんて堅苦しいことは私にはわかりません。ただ、私にできることがあるとすれば、手を差し伸べること、それをけっしてはなさないこと、でしょうか」
「同感です。報告書をまとめたら、蕎麦でも食いに行きますか?」
「いいですな。やっぱり蕎麦は信州に限る!」
人の手は2本しかない。
どう足掻いても、発せられるSOSのすべてを救うことはできない。
それでも。
『諦めたくない』
その消えない闘志を胸に、彼らは並んで廊下を歩いていった。