置換法



「………………」

無言で玄関を閉めると、マリコはそのまま寝室へと直行した。

「榊?」

物音を聞きつけた土門が玄関に顔を向けたとき、視界に映ったのは、今まさに部屋へ消えようとしていたマリコのアウターの裾だった。

「あいつ、何かあったのか?」

この日土門は早めに退勤し、夕飯の支度をすませてマリコの帰りを待っていた。
いつもなら玄関で「ただいま」と声を出し、リビングかキッチンにいる土門に顔を見せてくれる。
それがこの日はまるで逃げるように寝室へ籠もってしまったのだ。
何かあったと思うのは当然だろう。

土門は寝室をノックする。

「榊、帰ったんだろう?」

『……………』

答えはない。
土門は構わず問い続ける。

「飯はどうする?」

『……いらない』

今度は返事があったが、それだけだ。

「何かあったのか?」

『……………』

沈黙。

「俺には言えないようなことか?」

『……………』

また沈黙。

「そうか。だが俺は聞きたい。今から10数えるうちにドアを開けろ。さもないと、蹴り壊すぞ!」

そう宣言すると、土門は1、2…と数え始める。
8を過ぎて、ようやくガチャリとドアが開いた。

「ドアを壊されたら困るわ」

現れたマリコの顔面は蒼白だった。
これはただ事ではないと、土門の目つきが変わる。

「何があった!」

思わずマリコの両腕を掴むと、ビクッと大きく肩を跳ね上げてマリコは後ずさる。
怯え方が尋常ではない。

「お前……もしかして、誰かに何かされたのか?」

マリコはぶるぶると震えだした。

「榊!」

マリコを落ち着かせるために抱きしめようとした土門だったが、直前で手を止めた。
触れないほうがいいと判断したのだ。

「落ち着け。ここにいるのは俺とお前だけだ。そして、俺は何があってもお前を傷つけたりしない」

「わかってる。わかってるの。でも、ごめんなさい」

土門はマリコをベッドへ座らせると、自分は離れた場所に椅子を置き、マリコの震えが収まるのを辛抱強く待った。

「帰ろうと思ったら、自転車のタイヤがパンクしていたの」

「………………」

ようやく話しだしたマリコの腰を折らないよう、土門は黙って促す。

「だから、地下鉄で帰ってきたの。そうしたら…」

ここまで聞けば何となく予想はついた。

「痴漢か?」

マリコはうなずいた。
その時の記憶が蘇ったのか、自分で自分を抱きしめる。

「こんなときに聞くのは酷だと思うが、確認するぞ。犯人の顔は見たのか?」

マリコは首を振る。

「後ろには何人もの男性がいたから、どの人かわからなかった」

「そうか。嫌なことを聞いてすまん」

「ううん」

「俺が迎えに行っていれば…」

土門は眉間に深くシワを寄せる。

「土門さんのせいじゃないわ。明日、被害届を出してくる」

「わかった。俺も同行する。お前一人で行かせるわけにはいかん」

「土門さん…」

「今夜は無理せず休め」

「うん。でも、お風呂に入りたい」

「あ、そうだな。もう湧いてるぞ」

「ありがとう」

一刻も早く洗い流したいのだろう。
マリコは立ち上がった。

「ホットミルクくらいなら飲めそうか?」

「え?」

「風呂から上がったら飲めるように準備しておく」

「じゃあ、お願い」

浴室へ向かうマリコの背中を土門は見送った。



リビングで待っていると、随分長くシャワーの音が聞こえる。
大丈夫だろうかと土門は気が気でなかったが、今声をかけるのは逆効果だろう。
マリコはかなりのショックを受け、恐らく自分の意志とは関係なく、体が男性に対して拒否反応を示している。

マリコにそんな想いをさせた輩を、土門は絶対に許せない。
しかし犯人を見ていないというマリコを、これ以上問い詰めることはしたくなかった。
マリコが望むなら、今夜土門はソファで眠るつもりでいた。
高ぶった神経を鎮めるために、マリコにはとにかく睡眠が必要だ。
考えを巡らせているうちに、シャワーの音は止んでいた。
土門はキッチンへ向い、ミルクパンを温め始めた。

しばらくすると、土門は背後に人の気配を感じた。
しかし気づかないふりをしてコンロの前に立ち続ける。

すると、シャツの裾がきゅっと掴まれた。
しばらくはそのまま。
どうしようかと迷っているようだが、土門は好きにさせておいた。

ミルクが温まった頃を見計らい、土門は火を止める。
すると今度はシャツの背中にぬくもりがしがみついてきた。

「できたぞ。飲むか?」

振り返らずに問えば、うなずく気配。

「マグカップに入れてやるから、一度離れろ」

「やだ」

「おい…」

「離れたくない」

「榊?」

「土門さん、こっちを向いて」

土門は言われた通りにした。
顔を見れば一瞬ためらいを見せたものの、マリコは土門の胸へ飛び込んできた。

「抱きしめても大丈夫か?」

「うん」

許可をもらうと、土門はだらりと下げたままだった両腕をそっとマリコの体に回した。
すると、マリコは「ほう…」と息を吐いた。

「土門さん」

「ん?」

「土門さん」

「うん?」

「土門さん、土門さん」

「榊?」

「……怖かった」

「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」

土門は泣き声のマリコの髪を何度も何度もなで続けた。


しゃくりあげる様子が落ち着くと、二人はリビングに戻って、少し冷めてしまったホットミルクを口にした。

「眠れそうか?」

「うん…………」

「俺は今夜ここで休むから、お前はゆっくり…」

「いや!」

強い語調に土門は驚く。

「どうして?どうしてそんなこと言うの?」

再びマリコは泣きそうになる。

「落ち着け。今夜のお前は隣に人がいたら、熟睡できないだろうと心配になっただけだ」

「本当に?もしかして土門さん、私のこと…」

その先の言葉を聞いて、土門は怒った。

「バカを言うな!そんなわけないだろう!」

怒鳴ってしまってから、すぐに土門は頭を下げた。

「すまん。また怖がらせちまったか?」

「大丈夫。びっくりしただけ」

土門はほっと安堵する。

「榊。俺はお前が汚れているなんて1ミリも思わない。逆にそんな程度の男だと疑われたことがショックだ」

「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ…」

「わかってる。俺はお前を信じている。だからお前も俺を、俺の気持ちを信じてくれ」

「うん。信じる。でももっと信じさせて」

マリコはマグカップをテーブルに置くと、土門の首に腕を回した。

「土門さんのことだけ考えられるようにして。土門さんで一杯にして、嫌なこと忘れさせて」

「本気か?」

マリコはうなずく。

「家につくまで、ずっと男の人とすれ違うたびに怖かった。でも家に帰ってきて土門さんの顔を見て、声を聞いていたら少しずつ恐怖が薄れていったの。今はもう土門さんは怖くない。土門さんは特別なのね。ほら…何かのアニメにあるじゃない?食べたら怪我が一瞬で治る魔法の豆」

「もしかして仙豆か?」

「そうそう!土門さんは私にとっての仙豆ね」

くすっとマリコはようやく笑顔を見せてくれた。

「榊。仙豆はお前の体の中に入って効果を発揮する魔法の豆だぞ?わかっていて、俺が仙豆だと言ってるのか?」

土門はマリコを抱き上げると、自分の足の上に座らせた。
パジャマの裾のボタンを外して手を忍びこませれば、風呂上がりの肌はまだほんのり温かい。

「もちろんよ」

いつもと逆転した高さから、マリコは背中を丸めて土門にキスをした。

「私の中から私を癒やして」

その言葉を受けて、土門はマリコの全身を上書きするように丁寧に清めていった。
髪の先、手足の指先まで余すところなく。
もちろん、秘められた場所も念入りに。
この中に入ることが許されるのはただ一人、土門だけだ。
ひっそりと刻んだ所有の証は、マリコでさえ分からない。

土門は満足そうに笑むと、マリコを癒やすため、彼女の中へと優しさを解き放つのだった。



fin.


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