Longing
土門はひび割れた羅針盤に目を向ける。
待ち合わせより大分早く着いてしまったようだ。
手持ち無沙汰に、さてどうしようかと悩み、土門はスマホを取り出した。
実は数日前に新しい機種へ変更したのだ。
ちょうどいいとばかりに手近なベンチに腰掛けると、土門は画像データの整理を始めた。
それほど多くはないが、溜まった写真の中の一枚にふと目を奪われた。
何年前のものだろう。
古い写真の中には、こぼれそうな笑顔を向ける女性。
懐かしくて、眩しくて。
思わずこみ上げるものに、土門は気づかないふりをした。
大きなすれ違いで離れてしまった女性。
それでも彼女はいつも自分を励まし、背中を押してくれていたのだ。
失ってから初めてわかるようでは手遅れだ。
もう逢えないと分かっているから、たまらなく逢いたくなる。
いっそこの写真の頃に戻れたら…。
そう願い、現実に戻りたくない気さえする。
身じろぎもせずスマホを見つめる土門の肩口に、ポツリ、ポツリと雨粒が弾けた。
知らぬ間に雨が降り出していたのだ。
傘を持たない土門は、雨宿りをしようと周囲を見回す。
「土門さん、早いのね」
声をかけたのはマリコ。
待ち合わせの相手だ。
彼女は黙って傘を差し掛け、困ったように土門を見ている。
マリコの瞳には土門のスマホが写っていた。
『ああ、まだ…』
それが最初に感じたことだった。
マリコが土門との待ち合わせ場所に着いたとき、雨にも気づかず、土門はスマホを見つめていた。
何を見ているのだろうと、好奇心から土門のスマホを覗き込んだことをマリコは後悔した。
マリコは彼女が羨ましい。
きっと妹の美貴よりも、マリコの知らない彼のことを知っている女性。
それもただ一人きり。
いつまで独り占めするのだろう。
どこまで手放してくれないのだろう。
もう居ない人なのに。
「そうか。現実に戻りたい理由があったな」
土門はひとりごちる。
五月雨のように寂しくて、充たされない想いをずっと抱えていたはずなのに、いつの間にか昇華されていた。
それは騒がす、驕らず、ただひたむきに愛をまとった雪わり草が隣に居てくれたから。
寒い冬にも負けない逞しさ、その芯の強さに土門は惚れたのだ。
昔を懐かしんでも、今を生きているのはここにいる二人。
それは何があっても変わらない。これから先も。
土門は腕時計をそっとなぞる。
そう。
これからもずっと続いてくのだ。
ここで終わりになんてさせない。
「久しぶりに昔の写真を見つけたんだ」
土門はマリコに隠すことなく、スマホの画面を見せた。
「有雨子はよく笑う女だった。明るくて、活気に溢れて。もっと生きていたかっただろうな。そしてたくさんの人を看護師として助けたかったに違いない」
「そうかもしれない。でも…私は少しだけ有雨子さんが羨ましい」
「羨ましい?なぜ?」
「怒らないで聞いて。ずっと土門さんの心の中に綺麗なまま住んでいるから…。私は、どんどん歳を取っていくのに」
「隣の芝生は青い、とはよく言ったものだ。有雨子こそ、きっとあの世でお前を羨んでいるんじゃないか?」
「え?」
「自分の好きなことを、信念を、一生かけて突き進んでいるお前を同じ女性として羨ましく思うんじゃないか?」
マリコは曖昧にうなずく。
そうではない。
仕事云々ではなくて…。
「それに」
土門はさらに続ける。
「好きな人の側で一緒に歳を重ねられることを、あいつは何より羨んでいるだろうよ」
そうだろうか?
ふと、マリコは土門のスマホの中で笑顔をみせるその人に目を向ける。
『薫さんと一緒に生きていくあなたが羨ましいわ…』
きっとそれは空耳だろう。
fin.
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