愛だの、恋だの言う前に。
「おはよう。…………どうしたの?」
マリコが科捜研へ出勤すると、宇佐見と亜美が珍しく神妙な顔をして話し込んでいた。
「あ、マリコさん。実は今、蒲原さんが鑑定依頼書を持ってきたんですけど、そのときに…」
『おはようございます。これ、お願いします』
『了解です』
『よろしく。ええと、それから…これと、これも。あれ?あとどれだったかな?うわっ!』
『大丈夫ですか?』
蒲原が抱えた山盛りの資料を落としそうになり、亜美が慌てて支える。
『う、うん。ありがとう』
『こんなに沢山、珍しいですね』
『いつもは土門さんと分担するんだけど、土門さんが朝イチ本部長に呼び出されちゃったんだ』
『え?何かあったんですか?』
『わからないんだ。藤倉部長が直々に呼びに来たし、土門さんも険しい顔をしていたから、俺も心配してるんだ』
「ということがあったんです。それで宇佐見さんと何があったのなって…マ、マリコさん?」
マリコは亜美に自分のバッグを預けると、くるりと元来た道を戻っていく。
「本部長室へ行ってくるわ!」
「どういうこと?」
亜美は呆然としてマリコの背中を見送る。
「もしかしたら…マリコさんも関係しているのかもしれませんね」
「え?どうしましょう、宇佐見さん」
「とにかく今は様子を見るしかないですね」
「所長にも言ったほうがいいですよね」
「うーん。最近所長は胃の具合もよく無さそうですし、伝えるのはもう少し後にしませんか?私たちの勘違いという可能性もありますし」
「そう、ですね。了解です!」
亜美はピシッと敬礼すると、自分のデスクに戻る。
何にせよ、土門が一緒ならさほど心配はないだろうと、宇佐見も自分の鑑定室へと戻っていった。
マリコは悔やんでいた。
昨日、二人きりになったりしなければ。
自分が隙を見せなければ。
もっと強く突っぱねていれば。
こうすればよかった。
ああするべきだった。
マリコは後悔という重りを抱えて、本部長室へ走った。
ノックの音に部屋の三人が顔を上げる。
「どうぞ」
佐伯の返事にバンッ!と扉が開き、現れたマリコはマシンガンの勢いで話し始めた。
「佐伯本部長、土門さんは悪くありません!土門さんは関係ないんです。私が……」
「落ち着け、榊」
藤倉が興奮するマリコの脇をすり抜け、ドアを閉める。
このままでは会話が筒抜けだ。
「榊くん、ちょうど君にも色々聞こうと思っていたところだよ」
「だったら私が全て答えます。だから土門さんには戻ってもらってください。お願いします、本部長!」
佐伯に食ってかかりそうなマリコを藤倉が諌める。
「声を抑えろ、榊。とにかくまずは座れ。話はそれからだ」
「でも…」
「藤倉部長の言う通りだ」
ようやく土門も口を開き、マリコに自分の隣へ座るように促した。
神妙な面持ちの二人の様子に、佐伯は首を傾げる。
「二人とも、何か思い違いをしているようだね」
「「え?」」
「私は、君たちを叱責するために呼び出した訳じゃあないよ」
「あの?」
「それは…?」
二人は同時に口を開き、同時に黙る。
「まずは榊くん。もしかして昨日、あれが君に、その…何か失礼なことをしなかったかね?」
あれ、というのは佐伯本部長の甥のことだ。
彼は現在司法修習生という立場にあり、少し前から研修内容についてマリコへ助言を求めに何度か京都府警を訪れていた。
「それは…」
「本部長、どうしてそう思われるんですか?」
答えに窮したマリコの代わりに、土門が問うた。
「ふむ。昨夜、あれから電話があってね。土門という刑事に投げ飛ばされたと言うんだ」
「……………」
土門は無表情だ。
「だけどね、その話を頭から信じることはできなかった。身内の恥を晒すようだが、あれは昔から手癖が悪くてね。妹も手を焼いていたんだよ。それに、土門は何の理由もなく手を上げるような刑事ではないだろう?」
佐伯はニヤリと笑って藤倉を見る。
「全くもって同感ですな」
「……………」
土門は、黙って頭を下げた。
「そこでだ、榊くん。君をあれと二人にしたのは私だからね。心配していたんだ。土門が激怒するようなことがあったのかね?もしそうなら隠さずに教えてほしい。身内だからといって庇い立てする気はないよ」
「…………襲われかけました」
「本当か、榊!」
ガタンと、藤倉が立ち上がる。
「でも、すんでのところで土門さんが助けてくれたんです」
「そうか…。未遂だったか」
藤倉は大きく息を吐くと、ソファに座り直した。
「榊くん」
交代で佐伯が立ち上がる。
「私の甥が申し訳ない。未遂とはいえ酌量の余地はない。甥に変わって謝罪するよ。この通りだ…」
薄い頭を深々下げる佐伯に、マリコは「頭を上げてください」と恐縮した。
「本部長のせいではありません。私にも落ち度があったかもしれませんし…」
「いや、違うな」
「それはないな」
土門と藤倉の声が重なる。
「文科省には私から連絡する。このまま裁判官になどなったら、この国の司法はおしまいだ」
「しかし、いいのですか?」
藤倉は気にしている。
「自分で撒いた種だ。確かに甥はかわいいが、土門と榊くんも大切な部下に変わりない」
ここで一件落着となり、土門とマリコは無罪放免となった。
二人は本部長室を出てからは無言で、足を屋上へと向けた。
「佐伯本部長を困らせてしまったわね」
「何言ってる。お前は被害者だ。お前が気にすることじゃない」
「そうだけど…。でも、嬉しかったな」
「ん?」
「佐伯本部長と藤倉部長が、土門さんのことを信じてくれていて」
「ああ。俺も正直驚いた。呼び出されたとき、先ずは厳しく問いただされるだろうと思ったんだが、二人ともそんな雰囲気もなくてな」
「そうだったんだ」
「藤倉部長は随分とお前のことを心配していたぞ」
「藤倉部長が?」
「普段反発ばかりしていても、お前のことを気にかけているからな」
「そうかしら?」
気づかないならそれでいい。
恋敵になるなら、おそらく宇佐見と並んで手強い相手だ。
そんな相手はいないほうがいい。
「今度のこと、お前に落ち度はないが、少しは気をつけろよ」
「何を?」
ケロリと返され、土門は言葉に詰まる。
がっくりと膝が折れそうになるのを、必死に踏ん張る。
「『何を?』じゃねえ!」
「土門さん?」
目の座った土門は、ずいっとマリコに近づいた。
「いいか!たとえ知り合いだとしても、簡単に男と二人になるな。心を許すな。ついでに笑顔を見せるな。わかったか!」
ふんっと鼻息荒く怒鳴ると、マリコもムッとして言い返す。
「わかったわよ!もう土門さんにも心を許さないし、笑ったりしない。二人きりになるのも駄目なのよね?私、戻るわ!」
「ちょっと待て。何でそうなるんだ」
「土門さんがそう言ったんじゃない!」
「俺は『知り合いだとしても』と言ったんだ。俺とお前はもう単なる『知り合い』じゃないだろうが」
「じゃあ、何なの?」
「あー。それは、だなぁ…」
言ってしまってから気まずい雰囲気に、二人は目を逸らす。
しかし、土門はもう諦めた。
嘘をつく必要もないし、すでにお互いの気持ちは確かめあっているのだ。
「『恋人』だと思っていたが、違うのか?」
「ち、……………わ」
「ん?聞こえないぞ?」
「ううっ…」とマリコは恨めしそうに土門を睨む。
そんな顔をしても、土門の頬は緩むだけだ。
「違わないわ。もう、土門さんて意地悪なのね!」
「美貴にもよく言われたな。『お兄ちゃん、好きな子いじめるのやめなよー』ってな」
「好きな子……?」
マリコはそのフレーズに赤面する。
「顔、真っ赤だぞ」
「またそうやって、からかう!」
「仕方ないだろ」
嫉妬深くて、意地悪な男の子。
でも本当は、大好きな女の子には誰より優しくしたい。
「そんな風に拗ねるお前が、かわいいからだ」
きょとんとしたマリコに笑ってみせると、土門は「もう我慢も限界だ」とその唇を奪うのだった。
fin.
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