愛だの、恋だの言う前に。
「またか…」
土門は心の中で、それはそれは深い諦めにも似たため息をついた。
ここに、また一人。
美しき蝶の鱗粉に酔いしれる男あり。
ただ少々問題なのは、そいつが佐伯本部長の甥という点だ。
なんでも司法試験に在学中ストレートで合格した秀才で、現在は裁判官を目指して司法修習の身の上らしい。
先日裁判記録の件で質問があると伯父をたずね、それに答えてくれたマリコにひどく興味を持ったらしい。
それ以来事あるごとに理由をつけては京都府警を訪れ、マリコを呼び出すようになった。
先日など「続きは食事をしながらどうですか?」と提案してきたらしい。
もっともその時はマリコも鑑定を抱えており、ピシャリと撥ね退けたそうだ。
後でマリコから聞いた話だが、実にいい気味だ。
だが今日も今日とてめげずに彼はやってくる。
才ある人種は不思議なもので、自分が拒否されるかもしれないという可能性を1ミリも疑わないらしい。
誰もが自分を尊敬し、ひれ伏すと信じて疑わない、実に厄介な人種なのだ。
そして、この男が一つの事件を起こす。
「榊くん。忙しいのに悪いねぇ」
あまり悪いとは思っていない様子で、佐伯はそそくさと帰り支度を始めている。
「今日は早く帰るように家内に言われていてね。先に失礼するよ」
お気に入りの帽子を被ると、白表紙を前に話し込む二人に手を挙げた。
「お疲れさまです」
「伯父さん、また」
「榊さん。今夜ご予定はありますか?」
「え?」
「よかったらお食事でもどうですか?僕、ずっとお礼にご馳走したいと思っていたんですよ」
「お礼なんて。そんな…」
「何でも榊さんの好きなものをご馳走しますよ。和食でもフレンチでも行きつけの店があるので、すぐに予約を入れます」
「いえ。本当に結構ですから」
「それでは僕の気が済みません!」
「そんな、困ったわ…」
眉尻を下げ、困惑した表情は実に可愛らしく、思わず男は動いた。
マリコの白い手をぎゅっと握る。
「榊さん、どなたかお付き合いされている男性がいるんですか?」
「は、離して下さい」
男は聞く耳を持たず、勝手に会話を進める。
「僕とお付き合いしてもらえませんか?今でこそ司法修習の身ですが、僕の将来は約束されています。家柄もまぁ、自慢ではありませんが、所謂上流階級に分類されると思いますよ」
自分の優位を匂わす言い回しに、マリコは眉を潜めた。
将来が約束されている、なんてどうしてわかるんだろう?
上流階級も親の功績であって、本人は何の努力もしていない。
マリコは彼に全く魅力を感じなかった。
「とにかく、この手を離して下さい!」
「では、僕と食事に付き合ってくれますか?」
「私はまだ仕事が…」
「そんなもの、他の誰かに頼めばいい。僕なら女性に残業なんてさせません」
その一言は、マリコの逆鱗に触れた。
マリコは全力で手を振りほどく。
「私は自分の仕事に責任を持っています。あなたとは違うわ」
「怒った顔も実に美しい。もっと怒らせてみたくなりますね」
「私をバカにしているんですか?」
「とんでもない。バカにするどころか、恋していますよ」
ウィンクなぞ飛ばし、気障な男だ。
「???…どうぞ」
マリコはティッシュペーパーを相手に渡した。
「何です?」
「え?目にゴミが入ったんじゃないですか?」
きょとんとした表情を見れば、本気でそう思っていることがわかる。
「ぷっ。なんて可愛らしい人だ!」
男はますますマリコを気に入り、ついに実力行使に及んだ。
1/3ページ