マスター最強説



黒猫の吹は、ちょっと気取った様子で塀の上を歩いていた。
なぜなら、最近手に入れた小さな金の鈴がついた赤い首輪がお気に入りだからだ。
吹にこの首輪をくれたのは、“ドモン”という名前の人間だ。
吹は初対面のときからなぜかこの人間によく懐いていた。
吹は“ドモン”という人間が大好きになった。

けれど最近、吹には不満がある。
吹がmicroscopeに来たばかりの頃は「ニャァ」とドモンを呼べば、必ずドモンは吹を振り返ってくれた。
ところが、ここのところ吹が「ニャァ」と鳴いても、ドモンは他の人間に夢中なのだ。
それは“マリコ”という人間だ。
ドモンはマリコと話しているとき、見つめ合っているとき、手を握っているときには、他の何にも興味を示さない。

吹はこれまでドモンの一番は自分だと信じていた。
自分は特別なのだ、と。
でも違った。

人間は所詮猫よりも、同じ人間がいいのだろうか。

「ニャァ…(どうして人間に生まれなかったんだろう…)」

果てなく続く空に、吹の哀しい鳴き声が溶けていった。




吹という黒猫はある日オパールに連れられ、ひょっこりmicroscopeに姿を現したのだ。
数日後には無事に飼い主が見つかったのだが、事情によりこれから先も吹を飼い続けるのが難しいのだと飼い主は寂しそうに零した。
それを聞いてマスターは決断をした。
オパールが吹を連れてきたのも何かの縁だろう。
こうして吹は、microscopeの新たな住人となったのだ。



吹がぼんやり空を見つめているうちに、いつしか日は傾き、白い雲は灰色に変わっていった。
すると、吹の耳元で声がした。

『おい、猫。何か食いものを持ってないか?』

そういう相手は奇妙な出で立ちだった。
オレンジ色のカボチャから4本の足が伸び、顔の部分はまるで猫。

『俺さまはキャツ・オー・ランタン。ハロウィンのヴィランズだ。何か食い物をよこせ。さもなくばお前を人間の姿に変えてしまうぞぉ』

「え?」

吹は目を輝かす。
それは願ってもないことだ。

「食べ物なんてぜーんぜん持ってないから、さっさと人間に変えてよ」

『な、なに?』

思ってもみない反応にたじろぎ、キャツ・オー・ランタンはコホンと咳払いをした。

『よし、では覚悟しろ…』

ふっと一瞬意識が薄れ、気づいたときには、吹はmicroscope近くの公園のベンチに座っていた。
自分の体を見下ろせば、長く細い手足。
視界はぐんと高くなり、二本足で歩くことができた。

「人間だ!」

人間の言葉も発することができる。

吹は興奮したまま、microscopeの扉を開けた。
いつもは裏口からしか入ったことのない店内は、今の吹にはまったく違う場所のように思えた。
そして目指す人物はカウンターにいた。

「ドモン!」

猫のように軽い足取りで、吹はスツールに腰掛ける土門に飛びついた。

「うわっ!ど、どなたですか?」

「あたしだよ。あたし……あれ?」

突然、吹は自分の名前が思い出せなくなった。
まるで頭の中に霧がかかったようだ。


「どなたかと勘違いしていませんか?」

「ドモン、あたしだよ。わかんないの?いつも頭や背中を撫でてくれるじゃん。それにキスしてくれるし、ギュッと抱きしめてもくれるよね?忘れたの?」

「ちょ、ちょっと君!何てことを言うんだ!」

土門は慌てて吹を引き剥がす。

「土門さん?お知り合い?」

硬質な声は冴え冴えと澄み渡り、まるでディズニーの姫君のように土門を凍てつかせる。

「違う、誤解だ。榊、俺は彼女のことは知らない」

「知らないだなんて!酷いよ、ドモン…」

吹はショックのあまり、ポロリと涙を零した。
人間の姿になったのに振り向いてもらえない。

「私、今夜はお先に失礼するわ」

プイっと顔を背け、マリコは立ち上がる。

「待て。話を聞けって…」

絶対に帰らせない、と土門はマリコの腕を強く掴む。

「痛いわ、離して」

「離したら帰るんだろう?」

「私が居たら邪魔でしょう?」

「だから、それは…」

『ニャァァァァァ』

割り込んだ不機嫌な声は、マリコの隣から聞こえた。

「オパール?」

microscopeの元祖看板猫は、「うるさいっ!」と爪を顕にする。
そして、すべての元凶である吹をじっと見つめた。
オパールという名前の由来にもなった、角度によって七色に表情を変える瞳。
その瞳が吹を捉え、キラリと煌めいた。

「!!!」

その瞬間、吹は霧が晴れるように脳裏がクリアになった。

猫でも人間でも。
振り向いてもらえないなら、せめてずっと寄り添える猫でいたい。

そう願うと同時に、吹は口を開いても、もう言葉を発することはできなくなっていた。

「君?」

土門の呼びかけにも応えず、吹は操り人形のようにふらふらと危うい足取りでmicroscopeを出ていってしまった。

オパールだけには見えていた。
吹の頭上に渦巻くナイトメア。
彼女の些細な願いを、戯れにもて遊ぶ厄介な夢魔。
しかし昏い悪夢は眩しい光に晒され、跡形もなく消え去っていった。


どこをどう歩いたのか、吹はもといた公園に戻ってきていた。
そしてベンチに腰かけると、又しても意識があやふやになる。

『これに懲りたら、来年は食い物を用意しておけ』

果たして吹に聞こえたかは不明だが、ベンチには人の姿はなく、代わりに小さな黒猫が眠り込んでいた。
優しい風が吹くと、赤い首輪についた鈴が“チリン”と一度だけ響いた。




同じ頃、microscopeでは未だ言い合いが続いていた。

「頭や背中を撫でるってどういうことなの?」

むくれたマリコは身を乗り出して土門を問い詰める。

「だから、知らん。初めてあった女性だと言ってるだろう」

「じゃあ、キ、キスとか。抱きしめるとか」

「榊。誓って言うが、俺がキスしたり抱きしめたりしたくなる女はお前だけだ」

土門もヒートアップしているのか、マリコに顔を近づけてさらりと爆弾発言をする。
マスターは聞こえないふりをするのに一苦労だ。

「でも、あの女の人は…」

「彼女はどこかに行っちまった。もう忘れろ」

「だけど…」

もだもだ続く応酬に、丸くなっていたオパールが顔を上げる。
目をほそーくして暫く様子を見ていたが、足を伸ばして起き上がると、トン!とマリコの背を踏み台にしてスツールから飛び降りた。

「え?」

不意打ちの衝撃に、マリコの体は前に押し出された。
至近距離にあった二人の顔はどうなったのか。

「ご、ごめんなさい!」

「い、いや。気にするな」

慌てて離れるも、二人の顔は照明を落とした店内でもはっきりわかるほどに真っ赤だ。
一瞬のこととはいえ、マスターや数人の客には目撃されているだろう。

「そ、そろそろ帰るか?」

「う、うん」

二人はチェックを済ますと、マリコ、土門の順で出口へ向う。

『ニャァ!』

背後から聞こえた鳴き声に一瞬二人は足を止めて振り返る。

「オパール、またね」

「またな」

別れの挨拶を済ますと、二人はまた歩き出…そうとしたのだが。

「うわっ!」

「きゃっ!」

何故か平たい床で躓いた土門は、思わず目の前の華奢な背中にしがみついた。

「す、すまん。大丈夫か?」

「へ、へいき」

不可抗力とはいえ、店内でキスだけでなくバックハグまで…恥ずかしすぎる。
二人はそそくさと店を出た。


「恥ずかしくて暫くお店に顔出せないわ…」

「わざとじゃないんだ、気にするな」

「そうだけど。でも、あの女の人のことは気にするわよ?」

「うっ。まだ覚えてたのか」

「当たり前でしょ」

唇を尖らせてむくれる顔はチャーミングで、土門は嫌いじゃない。
ふっと笑うと、夜空にうっすら白い息が漏れた。
もう明日からは11月だ。


「寒くなってきたな…」

「誤魔化すつもり?」

「ほら」

「なに?」

「手を貸せ。どうせもう冷たいんだろ?」

「……………」

温かいぬくもりに包まれたマリコの手は、さらに大きなポケットにしまわれる。

「榊。もう何年も俺はお前以外の女は知らん。信じてくれないか?」

「………………」

暫く土門を見つめ、マリコはこくんと頷いた。

「さあ、帰って温まろう」

「そうね」

土門は笑った。
「どう温まろうか」と土門が考えていることなど、マリコは気づいてもいないのだろう。
そんなところも可愛らしく、そして少しだけいじめたくなるのだ。

「榊。風呂と布団、どっちで温まりたい?」

「!?」

目を見開いて口をパクパクさせるその顔が可笑しくて、土門はマリコの開いた唇に“はむっ”と食いついた。


少しだけ体温の上がった二人は家路を急ぐ。

「ん?」

残った片方のポケットに手を入れた土門は、固い感触に眉をひそめた。

「どうしたの?」

「しまった!こいつを忘れた………」



《Trick or Treat?》

さっさと猫缶をよこさないから、いたずらをされるのだ。
オパールは喉をゴロゴロ鳴らして、明日届くだろう猫缶に思いを馳せる。
すると、裏口から軽い鈴の音が聞こえた。

『ウニャン』

うなだれた様子の吹は、オパールの隣で丸くなる。

「おや、吹。おかえりなさい。さあ、二人とも。おやつですよ」

『!!!』

滅多にない夜のおやつに、二匹の耳がピンと立ち上がる。
落ち込んでいたはずの吹の瞳も、今や銀の皿に釘付けだ。

「今夜はハロウィンですからね。特別ですよ。これでもう、お客様にいたずらをしては駄目ですよ」

『!!!!!!』


恐るべし、マスター。



fin.


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