壮春
救急車が走り出すと、土門はマリコにたずねた。
「痛みは?大丈夫なのか?」
「これくらい平気よ」
そんな風に強がるくせに、腕を動かすだけでマリコは眉をしかめる。
「…………すまん」
「どうして土門さんが謝るの?」
マリコには理由がわからないのだろう。
首をかしげるばかりだ。
「俺はお前を守れなかった」
「なに言ってるの?ちゃんと守ってくれたじゃない」
「しかし……」
「土門さんのせいじゃない。悪いのは犯人。謝るのも犯人よ。土門さんじゃないわ」
マリコは土門の目を見て、はっきりとそう口にした。
はじめに男が襲いかかってきたとき、土門は別の場所にいたのだ。
それに攫われたのは自分の不注意もある。
そして傷つけたのはあの男であって、土門が責任を感じることはない。
「お前はいつも正しいな…」
すべてマリコの言葉通りだ。
でも…それでも土門は“守りたかった”し、守れなかったことを詰ってほしいとさえ思ったのだ。
絶対にマリコはしないだろうけれど。
土門は一抹の寂しさを感じて微笑んだ。
そして、この事件を最後に土門は京都府警を退官した。
この川沿いの一本道はマリコの家へと続いている。
今日は平日だが、マリコは非番だと言っていた。
歩く土門の手にはビールと焼鳥の入ったビニールが提げられている。
いまだ次の職を決めていない土門は、勝手気ままな日々を過ごしていた。
一日のすべてを自由に使える贅沢。
有り余る時間の中で、土門はずっと考えていたことがある。
これまで、人々の生活を守ることが土門の人生の大きな目標だった。
だからその目標のために、仲間であるマリコを助け、励まし、守ることは当然必要なことだった。
しかし、これからはどうだろう?
あのとき…怪我をしたマリコを見たとき、土門は愕然とした。
これからの自分にはマリコを守る『理由』がないのだ。
たとえ『理由』はなくとも、土門はマリコの側で、マリコの笑顔を守って行きたい。
ようやく。
ようやく土門は自分と向き合い、これまで聞こえぬふりをしていた己の真実の声を聞いたのだ。
マリコを幸せにする。
それこそが、これからの自分の生きる
いつの間にか土門はマリコの部屋の前に立っていた。
インターフォンを押すと、すぐにマリコは出迎えてくれた。
「土門さん。いらっしゃい」
「よお。土産だ」
手渡された袋をのぞき込んだマリコの顔が綻ぶ。
「焼鳥!ね、もちろん…」
「砂肝も買ってきたぞ」
「ありがとう!さあ、入って」
マリコに続いて土門が玄関をくぐると、扉はパタンと閉じた。
次の瞬間。
「え?」
マリコの手からビールが一缶だけ落ちた。
なんの前触れもなく、土門がマリコを背後から抱きしめたのだ。
「土門、さん?」
「榊、待たせてすまん」
続く想いの言葉に、マリコは「遅い!」と怒った。
マリコは待ち焦がれていた。
土門の退官が近づくにつれて、胸のざわめきは大きくなるばかりだった。
仕事という繋がりが切れてしまったら、土門との関係は無になってしまう…。
でも、マリコはどうすることもできずにいた。
頭脳明晰な
「待たされすぎて、お婆ちゃんになっちゃうかと思ったわ!」
そんな嫌みも、土門にはただ可愛らしく聞こえるだけだ。
「安心しろ。そんなになる前にもらってやるさ」
「それ、証明できる?」
相変わらずな物言いに土門は笑う。
自分は刑事ではなくなったが、マリコは今も科学者なのだ。
それでも、いずれマリコも“科捜研の榊マリコ”ではなく、ただの“榊マリコ”にもどる。
ーーーーー そして俺は…。
土門はマリコに渡したビニール袋に手を突っ込むと、焼鳥のパックの下から封筒を取り出した。
中身は自分の名前と判を押した紙切れ一枚。
「お前にやるよ」
それだけ言うと、目を白黒させているマリコと唇を合わせる。
「これで、QEDだ」
ーーーーー 俺は…今はもう、榊を愛するただの男だ。
マリコを抱きしめたまま、土門はふっと笑う。
その肩書も悪くないな、と。
fin.
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