壮春



「いい天気だなぁ」

土門は空を見上げ、うーんと両手を伸ばした。

暑くもなく、寒くもなく、時おり川を渡る風は心地いい。
土門はのんびりと川辺を歩いていた。

足を止め、振り返った土門は足跡そくせきを目で辿る。
気持ちがよかったせいか、気づけば随分と歩いていたようだ。

川の流れに沿った一本道。
出発地点はもう見えない。

「思えば、長い道のりだったな…」




土門は先日60歳を迎え、京都府警の職を辞した。
刑事人生を全うしたのだ。
そんな土門にとって最後となった事件。

それは、彼の刑事人生の中でも忘れられない事件となった。



その事件はGWに起きた。
古いアパートの一室でホステスが殺害されたのだ。
通報で警察が駆けつけたときには、すでに犯人は逃亡した後だった。
だが被害者の身体に残る痕跡から、容疑者は同じアパートに住む男の可能性が濃厚となった。。
周囲への聞き込みからも、殺害されたホステスが普段から男の部屋へ入り浸っていたという証言が得られた。
二人が男女の関係にあったと考えれば、おそらく動機は痴情のもつれという線が強いだろう。
そこまで分かれば、後は逃亡中の容疑者を見つけ出し、自供を引き出せば一件落着だ。
自分の最後の事件としては拍子抜けするような簡単な事件だと、土門はどこか高をくくっていた。

ところが事件は予想外の展開を見せる。

ゴシップ好きのマスコミや世間がこの事件に食いついたのだ。
そのおかげで、容疑者の目撃情報はかなり多く捜査本部に寄せられた。
その中から有力そうな情報を選び、土門達は目撃現場へ向かった。
そこは、民泊を受け入れている一軒家だった。
家主の許可を取り、部屋に踏みこんだ土門はそこに容疑者の男を見つけた。

突然現れた捜査員に動揺し、男は部屋中の物を投げつけて抵抗する。
なりふり構わず逃げ出そうとした男は、現場に同行していたマリコを目ざとく見つけた。
捜査員をかき分け、男はマリコに襲いかかる。
想定外の出来事に、周囲の対応がコンマ数秒遅れた。
その隙をついて、男はマリコを攫った。


「なに?榊!」

男を確保しようと最前列にいた土門は、背後で起きた悪夢に慌てて戻り、男に向う。
しかし。

「動くな!」

男はポケットからナイフを取り出すと、マリコの首筋に当てた。

「動いたら、この女を刺す」

「バカな真似はやめろ!」

「バカな真似?ふんっ。おい、すぐに車と現金、食い物を用意しろ。それまでこの女は人質として預かる」

要求を伝えると、男はマリコを引きずるように奥の部屋へ入り、ドアに鍵をかけた。

「くそっ…」

土門はすぐ近くの壁に拳を打ち付けた。
自分が側にいながら、みすみすマリコを攫われるとは…。

単純な事件だとどこか軽く見ていた。
事件に軽いも重いもない。
どんな事件だろうと真摯に向き合うことは刑事の原点だ。
退官間際になって、そんな初心を忘れていたことを土門は恥じた。
その油断がマリコを危険に晒すことになってしまったのだ。

「蒲原、藤倉部長に報告だ」

「はい」

土門は目の前のドアを叩く。

「おい、車が届くまで俺が人質になる。そいつを解放しろ」

「バカいえ!誰が屈強な刑事を人質なんかにするか!そんな交渉してるヒマがあるなら、さっさと車と金と食い物を持っこてい!」

それ以降は土門が何度も呼びかけても、男は返事をしなかった。

「榊、必ず助ける。この命にかえても」


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