お空のすべり台
「おしまい!」
パタン、と昊は本を閉じた。
「全部読めたな。すごいぞ昊!」
土門は、昊の頭を撫でてやる。
マリコもその隣で拍手していた。
「エヘヘ…」
昊はとても嬉しそうに、本を抱きしめた。
「さあ、二人とも。そろそろお風呂の支度をしましょうか?」
「そうだな」
「わーい。お風呂。どーもさんと入る」
「おう」
「シャンプーもするぞ?」
「ギュッてすれば大丈夫だもん」
昊は力いっぱい目を瞑り、両手で耳を押さえてみせる。
「頑張ってできたら、部長にもらったクッキー食べるか?」
「いいの?」
昊の目がキラキラと輝く。
「飯の前だからな、少しだけだぞ?」
「うんっ!!!」
夕食の支度をしているキッチンにまで、お風呂場から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
お湯を掛け合っているのか、ザバザバという水音に、キャー、ワー、とはしゃぐ声。
昊のリクエストのオムライスを作りながら、マリコは穏やかな幸せを感じていた。
土門と二人、甘くドキドキする時間は大切だ。
でもそれとは違い、何というか…マリコは満ち足りていた。
どちらがいいということではない。
どちらも…と自分には過ぎた望みを持ってしまいそうだ。
昊が美咲のもとへ帰った日。
マリコは寂しさと悲しみに耐えきれず、土門を求めた。
土門は全てを理解し、いつまでもマリコを抱きしめていてくれた。
そして、二人は約束したのだ。
いつか二人で暮らそう。
いつか子どもを作ろう。
いつか…がいつなのか、二人とも明言はしなかった。
それでもそう遠くはない未来だとマリコは信じている。
こうして再び昊と3人の時間を共有してしまえば、本当は今すぐにでも…。
けれど、土門の方は?
一人考え込んでいるうちに、二人はお風呂から上がったようだ。
真っ赤な顔からポカポカと湯気が見えそうな昊が、マリコのエプロンを引っ張る。
「まーちゃん、喉かわいた!」
「そうね。何飲む?お水?お茶?」
「ジュースがいい!」
「うーん。仕方ないわね、特別よ」
昊が持ってきたお気に入りのコップにオレンジジュースを注ぐ。
昊は美味しそうにゴクゴクと一気に飲んでしまった。
「美味しかった!」
「良かったわね。それじゃあ、どーもさんにもこれを持っていってくれる?冷たいわよ」
マリコは昊に缶ビールを持たせた。
「あ!振ったら…………あー」
振っているわけではないが、パタパタと走れば缶は揺れる。
マリコはタオルを手にすると、急いで昊を追いかけた。
「どーもさん、はい!」
「おっ!ありがとう、昊」
缶ビールを受け取り、土門の喉がゴクリと鳴る。
「土門さん、まっ…!」
プシッ!
「うわっ!!!」
飛び出す泡に、土門は慌てて缶に口をつけた。
「大丈夫?」
マリコがタオルを差し出すと、濡れた手と缶を拭く。
「これが本当の“缶一発”だな。アハハハ」
「……………」
理解できず首をかしげる昊と、ため息をつくマリコ。
どうやら土門も、この環境を存分に楽しんでいるようだ。
不格好ながら何とかオムライスらしき夕食を食べ終わると、3人はソファでTVを見ていた。
しばらくすると昊は何度かあくびをし、コテンと土門にもたれかかった。
「眠ってしまったわね」
「風呂でも随分とはしゃいでいたからな。疲れたんだろう」
「ええ。ベッドの用意をしてくるわ」
「頼む」
土門は昊を起こさないように、そっとソファに寝かせた。
まるまるとした頬を突けば、ふにっと柔らかい。
スースーと鳴る寝息をずっと聞いていたいと思ってしまう。
子どもとは、自分よりずっと小さな存在なのに、なんと大きな安らぎを与えてくれるものだろうか…。
寝顔を眺めながら、土門はこの短時間に昊が大きく成長したことを強く感じていた。
あっという間に字を覚え。
以前は泣いていたシャンプーも、我慢できるようになっていた。
ほんの僅かな時間でも、子どもはどんどん成長していく。
マリコと二人。
自分達の子どもの成長を見守っていきたい。
叶うなら、今すぐにでも…。
「土門さん。昊くんを運んでくれる?」
寝床ができたのだろう。
マリコが顔をのぞかせた。
「おう」
小さく返事をし、土門は昊を抱き上げた。
改めて感じる。
やはり以前よりもずっと重い。
それは、成長の証。
「でかくなったな、昊」
土門は優しく微笑むと、昊を寝室へ運んだ。
リビングに戻った二人はソファに座り、何となく無言で物思いに沈んでいた。
昊の存在が止まってい二人の歯車を、再び動かそうとしていたのだ。
「わかっているつもりだったが、子どもの成長は早いな」
「本当ね。もう本も1冊読めちゃうなんて、ビックリしたわ」
「そうだな」
「千葉さんは…」
「ん?」
「そんな昊くんの成長を全く見れなかったのよね」
「………ああ」
そう考えれば、千葉の気持ちもわからなくはない。
「だが、別れる選択をしたのはあの夫婦だ」
「そうね」
「反面教師にすればいい」
「え?」
「俺たちはそうならないようにしよう」
「土門さん…………」
「実はな。久しぶりに昊と一緒に過ごして、その…笑うなよ?自分の子どもが欲しくなっちまった」
「…………………」
「榊?」
「…………笑ったりなんか、しないわ」
「すまん」
「どうして謝るの?」
「子どもが欲しい、なんて。俺に産めるわけでもないのにな」
「自分の子どもなら、相手は………誰でもいいの?」
「バカ言え!母親はお前に決まってるだろうが」
大真面目に憤慨する土門に、マリコは呆気に取られ、却っておかしくなってしまった。
「笑うな、って言っただろうが…」
「だって…くすっ」
「明日、昊のことが無事に片付いたら、お前の考えも聞かせてほしい」
「今じゃなくてもいいの?」
「ああ。山野辺さんの答えを聞いてからでも遅くないだろう。彼女は働く母親としては先輩だ。彼女の話を聞いたうえで、お前の考えを聞きたい」
「わかったわ。でも、これだけは言わせて」
「なんだ?」
「土門さん、ありがとう。大好きよ」
「お、おいっ!今夜は昊がいるんだ。………煽るなよ」
本気で困ったような土門が気の毒で、マリコはごめんなさい…と素直に侘びた。
「もう寝るわね。また明日、おやすみなさい」
「ああ」
マリコは昊の眠る寝室へ向かう。
ところが何を思ったのか、引き返してきた。
「……………これくらいなら、いいわよね?」
額に女神からの祝福。
「…………おやすみ、榊」