お空のすべり台



土門の車に乗ると、昊はすぐに寝息を立てはじめた。

「疲れたのね」

「短時間で色々なことがあったからな」

「ええ。美咲たち、話し合いは進んでいるかしら」

「実はな、蒲原に千葉さんのことを調べてもらった」

「え?」

「勝手にすまんな」

「ううん」

「彼の実家は老舗のお茶問屋だそうだ」

「そうなの?」

「ああ。彼はそこで経理を担当しているようだ。自営業みたいなものだから、彼自身も時間に融通はきくし、両親も健在だ。離婚のときに親権を争っていたら、山野辺さんに勝ち目はなかったはずだ」

「それでも美咲が親権を持っているということは…」

「昊が母親から離れなかったのかもしれないな」

「だから千葉さんは、昊くんと会うことを条件に親権を譲ったのね」

「ところが山野辺さんはそれを守らなかった。もし、千葉さんがもう一度親権を争おうとすれば、今度は、昊は千葉さんと暮らすことになるかもしれん」

「美咲…」

マリコは何とも言えない顔を見せる。

「まだ結論は出ちゃいない。そんな顔するな。昊が心配するぞ」

「そうね。せめて私たちくらい明るくいなきゃね」

「そういうことだ」

話しているうちに、土門の車はマリコの家のすぐ近くまで来ていた。

「ところで土門さん。うちに泊まるのはいいんだけど、その…………」

言いにくそうなマリコをちらっと見ると、土門は苦笑した。

「部屋の掃除のことか?」

見透かされ、マリコは下を向いた。

「とりあえず昊が遊ぶスペースだけ作ってくれ。後は俺が掃除してやるよ」

「ごめんなさい…」

「なんで謝るんだ?俺が急に言い出しちまったことだからな。気にするな」

土門は駐車場に車を停めると、ぽんっとマリコの頭を撫でる。

「ありがとう」

はにかむ笑顔に、土門は運転席から身を乗り出すと、その唇を攫った。

「よろしく頼むな、マリコお母さん」

唇を隠しながら、赤くなるマリコ。

「こ、ちらこそ、薫……お父さん」

「………………」

土門は急に押し黙る。

「なんか…いいな。それ……」

ボゾっとつぶやくこちらも、耳たぶが赤い。

「ほ、ほら。昊を連れて後から行くから、部屋の片付けをしてこいよ」

「う、うん」

マリコは車をおりると、一足先に家に戻った。



土門が眠ったままの昊を抱きかかえ、マリコの部屋へ入ると、思ったよりも整頓されていた。
ソファの上やテーブルには多少物が散乱しているが、マリコにしてはきれいな方だ。
そのソファに昊を寝かすと、音のするキッチンをのぞいた。
残したままだったのだろう。
朝食の洗い物と、コーヒーをセットしてくれていた。

「俺はなにもすることがないな」

「そんなことないわよ。パンケーキの準備をお願い」

「ああ、そうだったな。材料はあるか?」

「ある…と思うんだけど、どうかしら?」

土門は薄力粉や牛乳、卵の消費期限を確認する。

「大丈夫だな。よし、作り始めるか」

「土門さん、後ろにエプロンあるわよ」

「おう」

最近になって、土門はマリコの家に自前のエプロンを置くようになった。
それを身に着けながら、「お前は?」とエプロンをせずにいるマリコに問いかけた。

「もう少しで終わるから、大丈夫」

「しかし…水がはねて汚れるぞ」

土門はマリコのエプロンを手に取る。

「動くなよ」

背後からエプロンをマリコの首にかけると、背中で紐を縛る。

「ありがとう」

しかしその場に土門の気配は残ったままだ。

「土門さん?」

突然、ふっと耳元に息がかかり、マリコは首をすくめた。

「ちょっ…!」

手が泡だらけのマリコは抵抗できない。
それをいいことに、土門のイタズラはエスカレートしていく。

背後から回された手がマリコの腰を抱き、そのままそろそろと上に這い上がる。
いよいよ膨らみに触れようかとしたその時。

「もう!」

「いてぇ!」

力いっぱい足を踏まれた土門は飛び退いた。

「酷いぞ」

「自業自得よ。抵抗できない相手に、卑怯だわ」

「ほう。ということは、抵抗できる時ならいいんだな?」

「うっ…」

マリコの視線が泳ぐ。

「隙きあり」

ちゅっ、とマリコの頬で音が鳴る。

「今はこれで我慢してやる」



「あー!まーちゃんと、どーもさんがちゅーしてる!」

いつの間に起きたのか、キッキンの入り口に昊が立っていた。

「そ、昊!起きたのか?」

「うん」

「そ、昊くん。これはね、挨拶なのよ」

「挨拶?」

「そう。外国ではみんなしてるのよ」

「ふーん。まーちゃん、ボクにもしてくれる?」

「もちろんよ!」

マリコは昊の左右のほっぺにちゅっ、ちゅっとキスをした。

「エヘヘ」

昊は嬉しそうだ。

「ズルいぞ、昊。2回も……」

「土門さん!パンケーキの支度をしてちょうだい!」

「……………はい」



おやつに土門特製のパンケーキを頬張り、昊はニコニコだ。

「まーちゃん、ふわふわで美味しいね」

「そうね」

マリコは昊の正直な感想に苦笑するしかない。
以前マリコが作ったときには、『固い』と評させれてしまったのだ。

おかわりまでして満足げな昊に、土門はたずねた。

「さて、昊。なにして遊ぶ?」

「あのね、ボク…。どーもさんと、まーちゃんにお願いあるの」

「なんだ?」

「これ……………」

昊はリュックから1冊の本を取り出した。

「この本は……………」

二人は顔を見合わせた。

それは以前、本が読めるようになりたいという昊へ、土門が用意したものだった。
別れ際、この本をマリコから渡された昊は、次に会うときまでに一人で読めるように頑張ると約束したのだ。

「まだじょうずじゃないけど、読めるようになったよ。聞いてくれる?」

「もちろんだ。聞きたい!」

「私も!」

「うん!どーもさんとまーちゃんは、ここ、座って」

昊は二人を自分の隣に座らせると、本を膝に乗せ、表紙を捲った。

それはカラスのパン屋さんのお話だった。
赤ちゃんカラスが沢山生まれたパン屋さんは、赤ちゃんのお世話が忙しくて、いつの間にかパンが売れなくなってしまった。
ところが、カラスの子どもたちのために作ったパンがいつの間にか人気となり、沢山の種類のパンが生まれ、最後には大人気のお店へ復活したというお話だ。

昊はあるページを開いたところで、読むのを止めた。

「ボク、ここが一番すき」

「すごい!色々な種類のパンが書いてあるわね!」

「まーちゃんは、どのパンがすき?」

「うーん、これかな?」

マリコは絵のパンの一つを指差す。

「ボクも!どーもさんは?」

「これも美味そうだ」

「うん!」

土門の指すパンを、昊も「これ!」と小さな指で触る。

「どーもさんのパンケーキも売ったら?」

昊の思わぬ提案に、二人は爆笑する。

「昊、買いに来てくれるか?」

「行く、毎日!」

「毎日か!そりゃ、嬉しいな」

土門は昊を抱き上げると、自分の膝の上に座らせた。

「よし、続きも読んでくれ」

「うん!」

マリコも二人に寄り添う。
たどたどしいながらも一生懸命に読みすすめる昊を、二人は慈しむように見つめていた。



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