お空のすべり台
マリコは一度電話を切ると、すぐにまた別の相手のナンバーをコールした。
『俺だ』
聞き慣れた声に、マリコは緊張の糸が切れたのか…不意に涙が湧き出した。
「ども…さん……」
『どうした?』
「わた、し……っく」
しっかりしなくてはいけないと思うのに、喉から出るのは嗚咽ばかりだ。
『榊、今日は非番だったよな?今、家か?』
「…………」
見えないはずなのに、土門はマリコの頷く気配を察知した。
『すぐ行く』
土門が走り出す足音が聞こえ、マリコは慌てて土門を止めた。
「待って!」
足音が止む。
マリコは深呼吸をした。
「ごめんなさい。大丈夫。土門さんにはそこにいて、すぐに動いてもらいたいの」
『どこに行けばいい?』
やはり、土門は話が早い。
「このまま話しながら、藤倉部長のもとへ向かってほしいの」
『わかった。それで、何があった?』
「ええ。それが………」
マリコの話を聞くうちに、土門の足運びはどんどんと速くなり、眉間には深いシワが刻まれた。
土門は怒っていた。
彼とすれ違う署員たちは『何事か?』と憤怒の仁王を避けるようにそそくさとすれ違っていった。
「失礼します!」
返事も待たず、土門はやや乱暴に扉を開いた。
中にいた人物は一瞬目を開き、すぐにしかめ面を見せた。
「随分乱暴だな。何の用だ、土門」
「部長!」
土門は藤倉のデスクをバン!と叩いた。
「昊が誘拐されました!」
「………………………………なに?」
藤倉は冷たい視線で土門を見上げる。
冴え冴えとした声は、青い怒りの焔に燃えていた。
「詳しく話せ!」
そこで土門はスマホを藤倉のデスクに置き、スピーカーをオンにした。
「部長。榊と繋がっています」
「わかった。榊、説明しろ」
『はい。1時間ほど前に美咲…山野辺美咲さんから電話がありました』
マリコの説明はこうだ。
きっかけは、午前10時前に保育園から美咲のもとへかかってき電話だった。
『今日、昊くんはお休みですか?』という出欠の確認だったらしい。
それに美咲は驚いた。
午前8時30分には、美咲は昊を保育園に連れて行っていたのだ。
この時間は登園のピークで人が多い。
美咲は昊を正門の中まで送ると、そこで別れた。
下駄箱へと走っていく息子を見送り、美咲はそのまま仕事へと向かったのだ。
その話を聞き、園内では職員総出で昊の捜索が始まった。
小さな体だ。
思わぬ場所に落ちてしまったり、挟まってしまったりしている可能性もある。
しかし皆が園内をくまなく探しても、昊の姿は見つからなかった。
そうこうする間に、美咲も保育園に到着した。
上司に理由を話し、仕事を抜けさせてもらったのだ。
「山野辺さん!」
昊のクラスのマミ先生が美咲に気づき、走り寄ってきた。
「先生、昊は?」
「それが、園内を皆で探したんですけど、昊くんはどこにもいないんです」
「そんな!それじゃあ、あの子はどこに……」
一瞬、美咲の脳裏にある予感が浮かんだ。
そこですぐにスマホを取り出し、確認しようとして、メールが届いていることに気づいた。
「えっ?………………」
美咲はメールの内容を確認すると、固まった。
「山野辺さん?」
マミ先生が気遣うように声をかける。
「だ、大丈夫です。昊は、私の知り合いの家に行ったのかもしれません。今から行ってみます。また後で連絡しますので」
「山野辺さん?あの…」
マミ先生が引き止めるより速く、美咲は走り出していた。
なんでヒールなんて履いてきたんだろう。
なんでもっと早く駆けつけなかったんだろう。
後悔の念が美咲を襲う。
美咲は自宅までの道のりを泣きながら走った。
帰宅すると、美咲はすぐにスマホをチェックした。
しかし新しいメールは届いていない。
仕方なく、もう一度さっきのメールを見直した。
そこに表示された一枚の画像。
それは間違いなく眠っている昊の姿だ。
見たところ怪我はしていないようだが、昊は目覚めたらどうなるのだろうか…。
美咲は震える指で画面をスクロールした。
*****
息子は預かった。
また連絡する。
*****
美咲はぺたんと床に座り込んだ。
「昊………………………」
息子が誘拐された。
それは紛れもない事実だった…。
どのくらい放心していたのか。
美咲はよろよろと立ち上がった。
喉がカラカラに乾いている。
美咲はコップに水を注ぐと、一気に飲み干した。
キッチンカウンターには、今朝洗い上げたばかりの食器が並んでいた。
美咲の目に、昊のお気に入りのキャラクターが描かれた小さなご飯茶碗とコップが映る。
「昊、昊、そら………」
美咲は濡れた頬をぐいと擦ると、スマホを掴んだ。
そして意を決し、この世で一番信頼できる友人に電話をかけた。
「なるほど。経緯はわかった。そのメール、榊は確認したのか?」
『見ました。科捜研へも転送してあります』
「よし。土門、科捜研へ向かおう」
「はい」
「榊、お前は母親のもとへ向かえ。すぐに自宅へ誘拐専属の捜査員を派遣する」
『わかりました』
そこで土門はスピーカーを切った。
そのままスマホを耳に当てる。
「大丈夫か?何かあればすぐに連絡しろ。いいな?」
『うん。わかってるわ。ありがとう、土門さん』
マリコは気丈に答えるが、最初の泣き声でも分かるように、本当はかなり参っているはずだ。
土門はすぐにでも駆けつけたい気持ちを何とか堪える。
「いや。切るぞ」
こうして昊の救出を最優先とした誘拐事案の解決に、京都府警は動き始めた。