偽り2
土門が大阪に出張していることを、マリコは藤倉から聞かされた。
たまたま帰りがけに報告書を届けた際、「新しいコーヒー豆を仕入れたから試飲に付き合え」と言われ、ソファでコーヒーが出来上がるのを待つ間に告げられた。
「そうですか。今が準備で忙しい時期でしょうに…」
マリコは随分の昔のおぼろげな記憶をたどり、そう答えた。
「そういえば、お前は一応結婚の経験があったな」
「一応は余計です」
むっとした返事に、藤倉は「確かにな」とクソ真面目な顔で発言を訂正した。
「できたぞ」
テーブルに置かれたカップから、コーヒーのよい香りが湯気とともに立ち上る。
「ありがとうございます」
「……………」
藤倉はマリコがカップを口元へ運び、黒い液体が喉を通り過ぎる様をじっと見ていた。
昔。
この女に何か得体のしれない気持ちを持ったことはあった。
しかしそれは、手に入れたいとか、側に置いておきたいというものとは少し違っていた気がする。
ただ、幸せな笑顔が見たかった。
ずっとそれが続くように…そう願い、見守っていきたいと思った。
「美味しいです」
マリコの声に、藤倉は我に返った。
「そうか。ところで、榊」
「はい」
「土門の結婚式には出席するのか?」
「はい。……………仲間、ですから」
返事に微妙な間があったことは隠しきれない。
「土門とは、その、話したのか?」
「何をでしょう?」
「結婚についてだ」
「いえ、別に…」
「お前はそれでいいのか?」
「え?」
「お前と土門は、何というか……」
「私と土門さんは仕事仲間です。それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも土門さんはそう思っているはずです」
「土門は?では、お前は?お前は土門のことをどう思っているんだ?」
「私は……………」
「この前ここでコーヒーを飲んだとき、お前は泣いていた。それはなぜだ?」
「それは………」
マリコは言いよどみ、一度きゅっと唇を閉じた。
「部長、私は被疑者ではありません。そのような個人的な質問には答えられません」
微かに揺れる瞳に、藤倉は問い詰めすぎたことを悟る。
「すまん…。お前の言う通りだ」
「それに。答えても、何も変わらない……」
「榊?」
「部長。このコーヒー、美味しいけど、私には…苦すぎる………」
マリコはとうとう両手で顔を覆ってしまった。
藤倉は窓辺に立ち、背後でマリコの嗚咽が止むのを待っていた。
「………すみません、部長」
「いや。最後に一つだけ聞いてもいいか?」
「何でしょう?」
藤倉はマリコを振り返る。
「俺に、何かできることはないか?」
「…………………………マシュマロ」
「ん?」
「次はマシュマロを浮かべたコーヒーを飲ませてください」
藤倉はほんの少し口角を上げて見せた。
「わかった。お前が望むなら、いつなりと」
マリコは深々と頭を下げると、部屋を出ていった。
ひとり残った藤倉は、この問題を打開すべく一本の電話をかけた。
数分後、その電話に呼ばれ駆けつけた人物は、小太りな体にマリコと同じ白衣をまとっていた。
「勤務後にすまないな、日野所長」
「いいえ」
帰る間際だったのだろう。
慌てて白衣を着直したためか、襟が反り返っていた。
「それで何か?急ぎの用件ですか?」
「実は土門と榊のことだ。所長は土門の結婚について何か知っていることはないだろうか」
「あの二人のことですか…」
日野はしばし黙り込む。
「部長は土門さんのお相手のことはご存知ですか?」
「土門の妹の同級生だということと、刑事の相手として問題はないということは聞いた」
「それ以上は?」
「いや」
「そうですか…」
日野は無意識に手を擦り合わせた。
「今から私が話すことは独り言です。よろしいですか?」
「私は何も聞いていない」
日野は頷いた。
「2ヶ月ほど前、土門さんの携帯に麻田さんという女性から電話があったそうです。麻田さんは美貴ちゃんの同級生だと名乗り、ストーカー被害に悩んでいることを土門さんに打ち明け、そのうえで相談に乗って欲しいと頼まれたそうです」
藤倉は黙って聞いている。
「美貴ちゃんに確認すると、確かに高校の同級生に麻田さんという女性がいたことが分かり、土門さんは彼女に会って話を聞きました。ストーカー被害は次第にエスカレートしているようで、土門さんは彼女の身に危険を感じた。一刻も早く相手を見つけたいが、被害届を出した所轄は腰が重く、期待が持てない。そこで一番手っ取り早く犯人をあぶり出す方法として、二人は偽装結婚式を行うことに決めたそうです」
「偽装?」
「……………」
「いや、なんでもない」
これは日野の独り言なのだ。
「結婚するとなれば、逆上したストーカーが姿を見せる可能性は高い。麻田さんに所轄の警護を付けることで、ストーカーの狙いを土門さんは自分に集中させようとしているんです。そのために、自分との関係を疑われそうな女性の存在を隠そうとした」
「それであえて榊を結婚式へ呼んだのか…」
「土門さんは、この事情をマリコくんには伝えるつもりだったようです。でもマリコくんは土門さんを避けるようになってしまった。それ自体はストーカーの目を逸らすことになるのでいいけれど、マリコさんに誤解されたままなことを、土門さんは酷く気に病んでいました」
「それではあの二人は、拗れきったまま離れ離れになってしまったというわけか。指名手配犯が早くに捕まればいいが…」
藤倉はデスクのカレンダーを確認する。
土門の結婚式まではあと2週間しかない。
「所長、ありがとう。これからもあの二人に何かあったときには、ぜひ手を貸してもらいたい」
「もちろんです。でも、部長がそれほど土門さんのことを気にかけていたとは…。失礼ですが、意外でした」
藤倉は曖昧に頷いただけだ。
藤倉が気になるのは土門ではない。
どことなく自分に似た堅物の女の方だ。
『もしかして、前世ではアイツの親か兄妹だったのかもしれんな』
そう思うことで、藤倉はこの不可解な気持ちに決着をつけた。