偽り2
翌日。
土門はいつものように屋上をおとずれた。
さて、あの招待状を受け取って、マリコはどんな反応を示すだろう。
土門はいたずらっ子のように気分が高揚していた。
烈火のように怒るだろうか。
ビンタの一発くらいは食らうかもしれない。
それともダンマリを決め込むか…。
様々なマリコの顔を想像しては土門の口元は緩む。
早くマリコがやって来ないかと心待ちにしていた土門だったが、結局マリコが屋上にやってくることはなかった。
この日を境にマリコは土門からの電話にも出ず、呼び出しても顔を見せることもなくなった。
それどころか事件に関する用件さえも、すべて蒲原を通してやり取りをすることになったのだ。
マリコは徹底的に土門を避けることに決めたらしい。
土門がマリコの顔を見なくなってから、すでに1週間が過ぎようとしていた。
金曜日。
明日はマリコも土門も公休日だ。
土門は今日こそは何としてもマリコを捕まえようと、定時より前から府警のエントランスに仁王像のように立ち尽くしていた。
そんなこととは知らずエレベーターを降りたマリコは、そこに土門の姿を見つけると慌てて壁に身を隠した。
土門に会いたくなかった。
それは真実だ。
けれど、それより何より、幸せそうな二人の姿を見たくなかったのだ。
そう。
マリコがエントランスにやってきたとき、土門は女性と何やら話し込んでいたのだ。
「薫さん、お疲れさまです」
「美羽さん!なぜここに?」
「仕事が早く終わったので、一緒に帰ろうと思って」
「……………」
表情の強ばる土門に気づき、女性は半歩下がった。
「駄目…でしたか?私帰りましょうか?」
「いや。しかし今後職場へ来るときは一度連絡してほしい。俺の仕事は決まった時間に帰れることのほうが少ない。君に迷惑をかける」
「薫さん…。嬉しい」
女性は土門の優しさに感銘を受けたらしく、人目も気にせずその腕にしがみついた。
「き、君…」
『何よ!みんなの前でいちゃついたりして!恥ずかしくないのかしら…』
女性にしがみつかれ満更でもない顔の土門を目にした瞬間、マリコは戻って来たエレベーターに乗り込んだ。
降りる階のボタンを押すのも忘れて考え込んでいたマリコは、偶然扉の開いた階でエレベーターを降りた。
そこは刑事部長室のある階だった。
「間違えちゃたわ。戻らなきゃ…」
人差し指を伸ばし、ボタンを押そうとしたマリコに声がかかった。
「榊?」
「部長!お疲れさまです」
「こんなところで何をしている。俺に用か?」
「いえ。降りる階を間違えただけです」
「?」
マリコらしからぬミスだ。
そして藤倉と顔を合わせた数十秒の間に、マリコは何度もエレベーターのボタンを押している。
「急いでいるのか?」
「そういう訳ではありませんが…」
「榊」
マリコが顔を向けると、藤倉は顎をしゃくった。
こっちへ来い、というジェスチャーだ。
マリコは藤倉の後に続いた。
刑事部長室へ入ると、藤倉はマリコにソファへ座るように促した。
「コーヒーでいいか?」
「え?いえ。部長…お帰りになるところだったのでは?」
藤倉はすでに制服から私服へと着替えていた。
「構わん。たまには付き合え」
そういうと、藤倉はロッカーから自前のコーヒーグッズを取り出した。
コーヒー豆の封を開けると、ふわりとよい薫りが漂う。
藤倉はしばし無言で豆をゴリゴリと挽いていく。
2つのカップを並べると、少量の湯を豆に含ませ、時間をかけて抽出していく。
コーヒーが落ちていく間隔を確かめながら、藤倉はようやく口を開いた。
「お前、土門のことは知っていたのか?」
「……………」
『何を?』なんてとぼけは、この上司には通用しないだろう。
「……………いいえ」
「そうか。俺も初耳だった。相手の女性のことは何か知っているか?」
「いいえ」
「そうか」
「しいて言えば」
「?」
「ストレートの黒髪が艷やかで、色白で、ロングスカートの似合う若い女性でしょうか」
「……………」
まるで今しがた見てきたような細かさに、藤倉は眉を潜め…マリコがエレベーターを降り間違えた理由を何となく理解した。
「砂糖やミルクはいるか?」
「いいえ」
マリコの今の気分はブラックだった。
「そうか。確か…」
藤倉は引き出しを開くと、菓子袋を取り出して封を切った。
そして中身をコーヒーに落とした。
「案外上手いぞ」
マリコの前に置かれたコーヒーカップには真っ白なマシュマロが乗っていた。
それはゆっくりと溶け出し、端から崩れていく。
その様子は、まるで自分の心のようだとマリコは思った。
黒い感情に溶かされ、少しずつ崩壊していく。
原型を留められず、やがて飲み込まれてしまう。
渦巻くマーブルなマリコの心。
「いただきます」
こんなもの、さっさと飲み干してしまおうとマリコはコーヒーを口に含んだ。
すると。
「あまい…」
溶け出しても、混ざり合っても、マシュマロは甘さを保ったままだった。
それが本当の気持ちなのかもしれない。
どう足掻いたところで、苦くはなれない。
マリコの心は甘い気持ちを捨てられないのだ。
気づけば、ポロリと一粒の雨が机に滴下模様を描いた。
「気の済むまでここにいるといい。帰るときには鍵をかけてくれ」
藤倉はカップの隣にこの部屋の鍵を置くと、静かに出ていった。
翌朝、土門は前を歩くマリコを見つけた。
今日こそは顔を突き合わせ、伝えなければならない。
息巻いた土門は早足でマリコを追いかける。
「さか…」
声をかけようとしたところで、マリコの隣に思わぬ人物が現れた。
マリコは頭を下げると、相手に何かを手渡した。
土門は目を
まさか、そんなことがあるだろうか?
見間違いだろうと、もう一度目を凝らす。
しかしもうそれを確認することはできなかった。
ただ、相手の手の中で何かが
土門には、それが『鍵』に見えたのだ。
朝一番で鍵を返す…それはどういう状況なのか。
土門の頭は混乱した。
それに追い打ちをかけたのが、鍵らしきものを受け取った人物だ。
その人は、階級は警視正。
京都府警刑事部長だった。