糸し糸しと言う心
その日の夜。
二人はmicroscopeを訪れた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
「「?」」
マスターの第一声に二人は首を傾げた。
「先ほどまでずっと、オパールが榊さまの定位置のスツールを陣取って動かなかったので、もしかしたら今夜お見えになるのかと…」
「当たりです」
マリコはマスターの洞察力に感心しながら、そのスツールにいつものように腰掛ける。
オーダーを終えるとマリコはオパールの姿を探した。
「オパールなら出かけていきましたよ」
「そう…ですか」
マリコは落胆の色を隠せない。
土門から昼間オパールが現れたことを聞き、今夜こそは何かあると期待していたのだ。
「実は、オパールがこんなものを探し出してきたんです」
マスターが二人の前に置いたのは、銀の小皿だった。
「これはオパールの……」
言いかけたマリコは、いつもの場所にオパールの水皿がきちんと置かれていることに気づいた。
「これはオパールのものではありません。この皿を見て、鷺沼さまについて思い出したことがあるんです」
「どんなことでしょう?」
土門も身を乗り出した。
「菱沼さまはもともと猫を2匹お飼いになっていました」
「2匹?」
「はい。双子猫で、1匹は白猫。もう1匹は『シュヴァルツ』という名の黒猫でした。このシュヴァルツとオパールはたいそう仲がよく、時々この店へも連れ立って遊びにくるようになったんです」
マスターは銀皿の縁を撫でながら記憶を辿る。
「ちょうどその頃、ご夫妻がご来店なさいました。しかしその時はシュヴァルツの飼い主が菱沼さまだとは存じ上げず、後で別のお客様からお聞きし、驚いたことを思い出しました」
「そうでしたか。そんな縁が…」
「はい。私としたことが、すっかり忘れておりました。申し訳ございません」
マスターはしきりと恐縮している。
「いいえ。忘れていても仕方ありませんよ」
土門は笑って、マスターを励ました。
「あの、マスター。シュヴァルツという黒猫は今どうしているのでしょうか」
マリコはどうにもその黒猫の存在が気になった。
いつも侑李の傍にいるのはヴァイスだけで、黒い猫の気配すら感じ取ることはできなかった。
「はい…。実はシュヴァルツは事故で亡くなってしまったのです」
「「え?」」
驚きの声が重なる。
「まだご夫妻にお子さまが生まれる前の事だそうです。飲酒運転の車に轢かれてしまったと人伝に知りました」
「そんな…。それじゃあオパールは……」
「ひと月ほどでしょうか…。しばらく姿を消していました。もしかしたらオパールはシュヴァルツを伴侶にと考えていたのかもしれません。そのくらい仲のよい2匹でしたから」
マスターはかつての2匹を思い出したのか、今はひとつだけ置かれた水皿を見つめている。
「オパールはずっと鷺沼家を見守っていたのかしら」
「そうだろう。もしかしたら、シュヴァルツからヴァイスのことを頼まれていたのかもしれないな」
「あるいは、ヴァイスを通してシュヴァルツの姿を探していたのかもしれないわね…」
土門とマリコの胸に切ない感情が沸き上がる。
二人はあの日、オパールが鷺沼家にいた理由をようやく理解した。
「ニャァ…」
話が終わるのを見計らったかのように、オパールが戻ってきた。
「オパール…」
マリコは足元のオパールを抱き上げると、ぎゅっとその体を自分の胸に包み込んだ。
その様子を見ても、今夜は土門も何も言わない。
時に人を食ったような聡い猫は、抱きしめればこんなに小さい。
ーーーーー 今だけは…。
マリコは母猫のような思いで、腕の中の温もりを大切に、ただ大切に愛おしんだ。