糸し糸しと言う心
「この家、結構でかくて立派だろう?」
「え?ええ」
先程からの会話との繋がりが読めず、それでも吹の言葉にマリコは頷いた。
「侑李の父親は会社を経営していた。社長だったんだ。でも侑李が3歳を過ぎた頃から段々と経営状況が悪化して、7歳の誕生日についに不渡りを出しちまったのさ」
「どうして君が知っているんだ」
「侑李の母親は小さな娘には理解できないだろうと思って、子守歌代わりに父親の愚痴を聞かせていたのさ。それにアタシはもうその頃、繭の中の蚕のように侑李の中に存在はしていたんだ」
「それを聞いていたわけか…」
「仕事のストレスから、父親は次第に家族へ手を上げるようになったらしい。はじめは飼い猫に。それから妻に。侑李に手を上げることはなかったけど、とうとうあの日…」
「誕生日ね?」
吹は頷いた。
「あの日、父親は売れ残ったショートケーキを一切れだけ買ってきたんだ。金がないから仕方ない。でも幼い侑李にそんなことはわからない。侑李は丸いケーキじゃないと嫌だと駄々を捏ねた。そしたら…」
吹は一度目を閉じた。
「あいつは、娘めがけて平手を振り下ろしたのさ。侑李は驚くだけで、逃げることも、声を上げることもできなかった。殴られる寸前、ヴァイスが飛び込んできたんだ。侑李に命中するはずだった平手はヴァイスをとらえた。ヴァイスは弾き飛ばされ壁に激突した。その時、運悪く壁にかかっていた額縁の端に目をぶつけてしまったんだ…」
「それで、目が…」
「血を流したまま体を痙攣させるヴァイスを目の当たりにして、当然侑李はショックを受けていた。でもしばらくすると、それは怒りに変わった。侑李は父親に体当りしたんだ」
「まさか、それが原因で転落したのか!?」
「そこからは先はわからない。侑李の記憶は眠ってしまっている。でもその時さ、アタシが呼ばれたのは」
吹は父親が倒れていた場所に立つ。
「アタシが侑李と入れ替わったとき、侑李は二階の奥の部屋にいた。すぐ足元にヴァイスが横たわっていた。そして、父親はすでに転落した後だった」
吹は階段を見上げる。
「はじめは父親の死体を見て、ショックのあまり侑李は記憶を封印したんだと思ってた。だけど…」
「だけど、何だ?」
土門は先を促した。
胸騒ぎがする。
土門の脳裏で黄色い信号が点滅しているのだ。
「侑李は階段の前じゃなくて、奥の部屋にいたんだ。当時4歳の女の子に体当たりされたくらいで、大の男が部屋の先の階段まで飛ばされたりすると思う?」
「母親の仕業か?」
吹は首を振った。
「それもわからない。同じ体にいても、侑李が本当に拒否している記憶にはさわれないんだ。でも、侑李が隠さなければならない記憶って…」
二人の会話を黙って聞いていたマリコが、「もしかしたら」と口を挟んだ。
「もしかしたら、誰にも言えない記憶を抱えきれなくなって、あなたに助けを求めたのかもしれないわね」
吹は痛みに耐えるような表情を見せる。
その心のうちは土門にもマリコにも分からない。
肉体を持たず、人格だけの存在。
吹の孤独は、吹にしか分からない。
「そろそろ母親が帰ってくる。侑李に体を返さなきゃ」
「吹」
土門の呼びかけに、吹は顔を上げた。
「鷺沼さんの事件、もう少し調べてもいいか?」
土門は真剣な眼差しで吹に問いかけた。
それは純粋に吹を案じてのものだ。
「か、勝手にすればいいだろ!」
なぜか幼い侑李の頬が赤らむ。
「わかった。また来るな」
「また?」
「ああ」
ーーーーー 『また』。
人はそれを“約束”という。
初めての“約束”に、吹は知らず心が踊った。