糸し糸しと言う心
「「こんばんは」」
「いらっしゃいませ」
響きのいい鐘の音と同時に、いつもの挨拶が交わされる。
二人は定位置のカウンターに腰を落ち着けた。
「いらっしゃいませ、榊さま。土門さま。今夜のご注文はいかがいたしましょう?」
「私は『マリコ』を」
「自分は車なので、ノンアルを何か…」
「承知しました」
「ところでマスター。オパールは帰っていますか?」
「はい。そちらに」
「え?」
「ニャァ!」
気がつけば、二人のスツールの隙間でゆらりと尻尾が優雅に揺れていた。
「オパール!そこにいたのね」
「ニャン」
オパールはマリコの膝に飛び乗ると、いつものように丸くなる。
「オパール。今夜はあなたに聞きたいことがあって来たのよ」
「ニャッ?」
三角耳がピクリと動いた。
「夕方あなたと出会ったあのお家…。オパールはあの白猫ちゃんとお友達なの?」
「…………」
「オパール?」
オパールは何も語らず(鳴かず)、ふいとマリコの膝から降りると店の奥へ消えてしまった。
「オパール?どうしたのかしら…」
「榊さま。何かございましたか?」
マリコはマスターの問いかけに、今日の出来事をかいつまんで説明した。
「マスターは何かご存知ですか?」
「もしかして…。鷺沼さまのお宅でしょうか?」
「ええ、そうです!」
「記憶は朧気ですが、鷺沼さまは随分昔にご夫婦で当店にお見えになったことがあります」
「夫婦で?」
「はい。ですが私がお会いしたのはその一度だけです。その後、ご主人は確か…3年ほど前に亡くなられたと別のお客様から聞きました」
3年前…。
マリコは考え込む仕草を見せる。
侑李の机には、小学1年生の教科書が並んでいた。
ということは、おそらく彼女の年齢は6歳か7歳だろう。
鷺沼当主が3年前に亡くなったのだとしたら、そのとき侑李は3歳か4歳だったことになる。
ヴァイスの目のこと。
吹の記憶。
鷺沼当主の死。
すべてが3年前に起きたことになる。
偶然だとは思えない。
そこには何かしら相互関係があるはずだ。
ふと、視線を感じて、マリコは目を上げた。
店の奥に見えるのは七色に煌めく2つの宝石。
ただし今夜は、その鉱石も冴え冴えと冷たく光るだけだった。
「さすがのお前も、今夜はオパールに振られたようだな」
「……………」
からかう土門に、しかしマリコは気づきもしない。
店を出てから、完全に思考の殻に閉じこもってしまったようだ。
土門はこっそり諦めのため息を吐いた。
「タクシーを捕まえてくる。今夜はもう帰れ」
「え?待って」
マリコは思わず土門の袖口を掴んだ。
「ん?」
「送ってくれないの?」
「今、お前の頭の中はオパールとあの女の子のことで一杯だろう」
だから、「今夜は一人で帰れ」と土門は言うのだ。
マリコは袖口を掴んでいた手をスライドさせ、土門の手に触れた。
よく知る手だ。
感触や温かさだけではない。
指の長さや、爪の形まで。
この手の優しさを、マリコは世界中で一番よく知っている。
『今、この手を離していいの?』
マリコは自問自答した。
オパールも、あの少女のことも気になる。
それは嘘じゃない。
でも……。
きっとこの手なくして、解決はしない。
これまでのように。
マリコはぎゅっと土門の手を握った。
「帰りたく……ない」
精一杯の抵抗。
「本当か?」
マリコはこくりと頷いた。
「だったら、態度で示してみろ」
「え?」
こんな場所で、マリコには無理な要求だろう。
分かっているくせに…俺もガギだな、と土門は言ってから後悔した。
はずが…。
「!?」
ーーーーー 夢か?
土門は自分の唇を指でなぞった。
「これでいいの?」
土門の手は、そのまま顔を覆う。
「お前ってやつは……」
その細腰を、土門は引き寄せる。
「今夜はお前の願いを何でも聞いちまいそうだ…」