忘れてください
翌日、土門へ来客があった。
連絡を受け、エントランスへ降りていくと、来客は土門に向かって丁寧に頭を下げる。
「マスター!」
「土門さま、お仕事中に申し訳ございません」
「いえ。それよりどうしたんです?」
「実は吹のことでご報告に」
「吹?あ、ああ…」
土門が敏感に反応する。
昨夜見た夢のせいだ。
しかし、マスターが話しているのは黒猫の吹のことだ。
「実は、吹を譲渡することに決めました。それで、先方の都合で明後日には引き渡すことになってしまったので、土門さまにお伝えに参りました」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます。マスターが譲渡に賛成なら、自分が口出しすることではありません」
「私はあの子の飼い主ではありませんよ」
マスターは苦笑する。
「店に連れてきたのはオパールですし、名付け親は土門さまでしょう?」
「そう、でしたね」
「その後も、オパールは吹の面倒をよく見ていましたが、吹が人間で懐いていたのは土門さまだけでした」
「え?」
「気づきませんでしたか?名前を呼ばれて返事をするのは土門さまにだけなんですよ。よほど吹という名前が嬉しかったのでしょうね」
マスターの最後の言葉は、もう土門の耳をすり抜けていた。
吹がいなくなった後、すぐにオパールが連れてきた黒猫。吹と名付けたのは、まるで吹の代わりに現れたように感じたからだ。
でも。
本当に吹だったのかもしれない、そう土門には思えてきた。
夢で吹が言っていたこと。
……気づいたら別の体にいた。
……名前をくれた人がいて。
別の身体とは、猫のことで。
名前をくれた人は、土門のこと…?
真実を知りたい。
「マスター、今夜お店に伺います。吹にお別れをさせてください」
「分かりました。お待ちしています」
マスターは丁寧に頭を下げると帰って行った。
約束通り、その夜、土門はmicroscopeを訪れた。今夜は一人だ。
「土門さま。いらっしゃいませ」
「マスター。吹は?」
開口一番、土門は吹について尋ねた。
「今はオパールと一緒に奥にいると思いますが…。オパール?」
マスターが呼ぶと、二匹の猫が連れ立って現れた。オパールと吹だ。
「吹!」
土門はすぐに吹を抱き上げる。
「お前、もしかして…あの『吹』なのか?」
吹は答えず、ただ自分の足を舐め続ける。
「吹?吹?」
何度呼んでも、吹は土門を見もしない。
すると、オパールが鳴いた。
土門がオパールを見る。
オパールは2つ並んだ銀の皿の一つを咥えていた。
それは二匹の猫が使っていた餌の皿だ。
オパールはその皿を伏せて、土門の足元へ置いた。
「オパール?」
その行動を訝しむ土門とオパールの視線が交錯する。
七色に变化するその瞳は土門に何を伝えたのか。
しばらくの後、土門は吹を床に降ろした。
すると吹は再び店の奥へと姿を消した。
「マスター、申し訳ない。呼び出されてしまいました」
土門はスマホを降って見せた。
帰るための方便だが、気づいているのかいないのか、マスター何も言わない。
「多分、もう吹には会えないと思いますが、どうかアイツのこと…よろしくお願いします」
「承知しました。お気をつけて」
「ありがとう」
土門はもう振り返ることなく、microscopeをあとにした。
あてもなく歩き続けた土門の足は、自然と京都府警へ戻っていた。
捜査一課の廊下を通り過ぎ、SRIと書かれたセクションへ足を踏み入れる。
中央の電気は消されていた。
それでもひと部屋だけ、今も皓々と明かりがついている。
ノックをすれば「はい?」とよく知る声が応えた。
この時になって土門は躊躇った。
なぜここに来たのか。
マリコに何を言うつもりなのか。
心の整理がつかない土門は、立ち尽くしたまま動けなくなった。
すると、扉は内側から開いた。
「土門さん、入って」
「仕事中か?」
「大丈夫よ」
土門が部屋に入ると、マリコは扉を閉め、窓をスモークにした。
「コーヒー飲む?」
「いや、いい」
「そう」
「……何で来たのか、聞かないのか?」
「聞いてほしい?」
「分からない」
それは絞り出すような声だった。
「分からない、って。まるで昨日の私みたいね」
マリコは微笑む。
「話したくなったら話せばいいわ」
そう言うと、マリコは作業を再開した。
「黒猫…」
ポツリと、土門がこぼした。
「microscopeにいた黒猫、もしかしたら本当に吹だったかもしれない」
「……そう」
「明後日、譲渡されることに決まったらしくてな。さっき会いにいってきたんだ」
マリコは黙って聞いている。
「だけど、今までの吹じゃなかった」
「どういう意味?」
「上手く言えないが、まるで違う猫みたいだった。本当にもう吹は居ないのか…」
「寂しい?」
「…………ああ」
ようやく土門は認めた。
吹が消えたことが、土門には悲しくて寂しいのだ。
愛情や友情とは違う。
同情?
それもきっと違う。
強いて言うなら、「ずっと気に入っていたキーホルダーをどこかに落としてしまって、見つからない」、そんな気分だろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、いつの間にかマリコが土門の前に立っていた。
「私がいても?」
「ん?」
「私が側にいても寂しい?」
「榊…」
「昨日、約束したでしょう?私は消えないって。私が側にいるわ」
マリコは土門へ寄り添うと、その肩へ頭をあずけた。
「また会えると思うか?」
「そう願いましょう。吹さんのこと、忘れずに待ちましょう」
マリコの言葉を聞いたとき、土門はふいに夢の記憶が蘇った。
聞こえなかった吹の最後の願い。
「いや。俺は吹を忘れることにする」
「それでいいの?」
「それがアイツの望みだ」
きっとまた会える。
その時は新しい
だから、これまでのアタシのことはどうか。
ーーーーー 忘れてください。
「生まれ変わった吹に会えるまで、アイツのことは忘れる」
土門は、必ずまた吹に会えると信じて疑わない。
そしてその時には、吹を見つけられると自信をもっているようだ。
「…何だか、羨ましい」
『土門さんにそんな風に想ってもらえるなんて』
そんなこと、マリコは思っても口には出せない。
「バーカ」
土門はクシュッとマリコの髪に手を入れると、そのまま顎を持ち上げた。
濁りのない闇色の瞳は、いつも真実を追い求めている。
土門は何度その闇色に溺れたかしれない。
「お前のことは何があっても忘れない。たとえ記憶喪失になってもな」
「本当かしら?」
「当たり前だろう。DNAに刻まれてるからな」
無茶苦茶だと論破される前に、土門はマリコの口を塞いだ。
ある日のこと。
ブロック塀の上に一匹の猫がひらりと舞い降りた。
猫の瞳はプリズムのように色を変える。
その視線の先には、くつろぐ二匹の猫の姿が映っていた。
一匹は仔猫。ソファの上で体を丸め、気持ちよさそうに眠っている。
そのソファの下には大きな老猫。
仔猫を見守るかのように、時折様子をうかがっては欠伸をもらす。
穏やかで幸せな時間だ。
「よかった」
風に乗って、塀の上の猫に届いた囁き。
「ニャー」
応えるように一声なくと、猫はヒラリとジャンプし、どこかへ消えていった。
また、逢う日まで。
fin.
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