忘れてください



その夜、土門は夢を見た。
少し離れた場所に佇む少女。その腕には白い猫を抱いていた。

「あれは…」

記憶を辿るように土門が近づくと、少女の姿が変化していく。背が高くなり、手足はすらりと伸びていく。長かった黒髪は、肩より少し上の長さに変わっていた。
もう少女ではない。
その女性の腕から猫は消えていた。
彼女は土門の顔を見ると、口を開いた。

「刑事さん、久しぶり」

姿形は変わっても、声は少女のころのまま。

「もしかして………吹か!?」

土門は数年前の出来事を鮮明に思い出した。それは多重人格の少女と、その体に宿っていたもう一人の人格の女性を巻き込んだ事件だ。正確には、過去の事件をマリコと二人で紐解いたわけだが、土門にとっては印象深い出来事だった。

「覚えていてくれたんだ、アタシのこと」

「当たり前だ!それより、その姿は…?」

土門が吹と呼んだ女性は、少女に宿っていた人格だった。だから、これまで彼女自身に肉体はなかったはずだ。

「これ?これはフェイク」

「フェイク?」

「そう。ここは刑事さんの夢の中だから、今のアタシの姿は刑事さんが想像してるんだ」

「俺が?」

「そうだよ。刑事さんて、案外スレンダーなタイプが好みなんだ?男ってさ、もっとボン・キュッ・ボンみたいなのが理想かと思ってたけど」

吹は言いながら、自分の体型を確かめている。

「あのなぁ…」

「わからなくもないけどさ」

「は?」

「だって、似てるじゃん。髪型とか、体型とかさ」 

誰に、とは言わないが吹はニヤリと笑う。

「余計なお世話だ」

からかう吹に、土門は眉を寄せる。

「それで?何で俺はこんな夢を見てるんだ」

「あー、それはね。アタシが頼んだから」

「?」

「オパールに、刑事さんと話したいって頼んだんだ」

「オパールに?」

「詳しいことは言えないけど、刑事さんに伝えたいことがあるから、頼んだ。あの時は話せなかったから…さ」

「…………………」

確かに。
当時、吹との分かれは突然で、特にマリコは激しく後悔し、深く悲しんでいた。

「あの後、お前はどうしていたんだ?」

「よく、わからない。気づいたら別の体にいた。でも、もうその体の中からも消えかけていたんだ。そうしたら、名前をくれた人がいて。アタシは消えずにすんだ」

「そうか。今は別の名前なのか?」

「秘密」

吹は切なそうに笑った。
その表情が思いがけず儚く、土門は胸がチクリと痛んだ。

「吹…」

土門が呼ぶと、吹の体が揺らめいた。

「あんまり時間がないんだ。刑事さん、“アタシ”を人格じゃなくて、人として見てくれてありがとう。刑事さんからは貰ってばっかりだ」

名前を呼ばれる嬉しさ
初めて交わした約束
肉体がないことへの戸惑い
孤独。
そして、多分…嫉妬。

すべて土門と出会って、吹が知ったことだ。
いいことばかりじゃなかった。
でも知らないでいるより、ずっといい。
だってアタシは、ちゃんと居るんだから。

感謝してる、そう言うと、吹は澄んだ笑顔を見せた。

「アタシはそろそろ眠ろうと思う。肉体のないアタシの行く先はわからない。でももし、生まれ変わることができたら…次はアタシの体と、アタシの心で生きてみたい」

吹はキラキラ輝く瞳で語った。

「じゃあ、刑事さん。科捜研のオバサンと仲良くな!」

「吹、待て!おい、吹!!」

いくら伸ばしても、土門の手は吹には届かない。

去っていく吹が一瞬、土門を振り返る。

「アタシのことは……」

「なんだ?聞こえない!吹っ!」

叫んだところで、土門は目を覚ました。



「土門さん、大丈夫?」

ハッと横を向けば、マリコが心配そうに土門を見ていた。

「すまん、起こしたか?」

「平気よ。吹さんの夢を見ていたの?」

「ああ。…なあ、榊。お前は信じるか?」

土門は今見た夢をマリコへ話した。

「他人の夢に入り込むなんて、科学的にあり得ない」

マリコは科学者の顔で否定した。

「でも、あり得なくても私は信じたい」

「榊?」

マリコはぎゅっと土門の手を握った。

「見て、土門さん」

マリコが擦り硝子の小窓を指差すと、差し込む月明かりに黒い小さなシルエットが横切った。揺れる長い尻尾に、一瞬煌めいた2つの宝石。

「オパールか!?」

「多分そうね」

「不思議な奴だな」

オパールが明らかに普通の猫と違うことは、土門もマリコも感じていた。日本にも古来から「化け猫」の言い伝えがあるように、闇夜を彷徨う猫はやはり尋常ならざるモノなのだろう。でも、たとえ不思議な猫だとしても、マリコも土門もオパールが好きなことに変わりはない。

「オパールがここに来ていたなら、やっぱり夢の出来事は本当なのかもしれないわね」

「ああ。そうかもな。いや、そう信じたい、俺も」

マリコはうなずくと、ふるっと体を震わせた。夜中は大分冷える季節になったようだ。
土門は冷えたマリコの体を抱き込むと、布団をかけた。

「吹は眠ると言っていた。今度こそ、本当に消えちまうのかもしれないな」

「………………」

マリコは何も答えず、うっすら涙をたたえた瞳で土門を見つめる。

「お前は消えるなよ」

「え?」

「俺の前から。この腕から消えるなよ」

「………消えたりしないわ」

辛うじてとどまっていた涙が、マリコの瞬きとともに一粒流れ落ちた。

土門はその涙を拭う。

「なぜ泣く?何が悲しい?」

「わからない」

マリコが土門にしがみつくと、とめどなく涙が流れ出した。

「わからないの………」

マリコが流しているのは、きっと土門の涙だろう。
土門が自分では気づいていない悲しみに、マリコのほうが引きずられた。悲しいはずなのに泣けずにいる土門の代わりに、そしてそこにマリコ自身の憂いも加わり、幾筋もマリコの頬を濡らすのだ。

「もう泣くな。吹は生まれ変わりたいと言っていた。その願いが叶うように、祈ってやろう」

「…う、ん。うん………」

マリコはしゃくりあげながら何度も頷く。

「土門さん………」

その声色に潜む、切なる願い。

土門はマリコが泣き止むまで、背を撫で、啄むようなキスを繰り返した。



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