忘れてください
今夜もbar『microscope』は程よい間接照明とセンスの良い音楽で来客を待っている。
カランと小気味よいベルの音が鳴り、二人連れの男女が顔を見せた。
「いらっしゃいませ。榊さま。土門さま」
「こんばんは」
そう答えるマリコの後ろで、土門はマスターへ黙礼した。
二人がいつも通りカウンターに腰を落ち着けると、すぐさまマリコの膝を看板猫が陣取った。
「こんばんは。オパール」
『ニャア』
挨拶なのか、ひと声鳴くと、七色の瞳が特徴的な猫は大きな欠伸をして丸くなってしまった。
一方の土門の足元でも小さな鳴き声がして、黒い子猫がじゃれついていた。土門は片手を下げて、猫を抱き上げる。
「よう、吹。帰ってきたのか」
黒猫の吹は、少し前に譲渡の話が出てトライアルへ行っていたのだ。
「マスター。トライアルはどうだったんですか?」
土門は何気なくたずねた。
「はい。それが…………思った以上に好印象なようでした」
「え!?」
土門は驚きに目を丸くする。いつもと変わらぬ様子に、トライアルは失敗したのだろうと思ったのだ。
「先住猫との関係を一番気にしていたのですが、すぐに仲良くなったようです」
マスターはスマホを持ってくると、その時の様子を写した動画を土門へ見せた。
吹よりもひと回り以上大きな先住猫は、性格も穏やかなのか、突然やってきた吹を威嚇することもなく、程よい距離で見守っている。そのうちに吹の方から近寄り、二匹は並んで家の中の探検を始めた。おそらく先住猫が案内しているのだろう。その姿はまるで…結婚の挨拶を済ませた後で、実家を案内する彼氏と従う彼女のようだ。
「そうだ!オパールは?オパールも同行したんですよね?」
土門はマリコの膝を陣取る猫を見る。
「それが…………」
マスターは次の動画を再生する。
仲睦まじく餌を食べる二匹の背後で、オパールはのんびりとソファで惰眠を貪っている。
「………何しに行ったんだ、お前?」
土門の恨みがましい声音に、すかさず上腕へ猫バンチが飛んできた。
「いてぇ」
顔を顰める土門に見向きもせず、オパールは“つーん”とすましている。
「オパールがこんな風に寛ぐのは珍しいのです」
マスターの言葉に、土門は「榊の膝の上ではいつもだらけてるけどな」と余計な一言を発し、再びパンチをお見舞いされることとなった。
「先方のご家族も、ぜひとも吹を引き取りたいとおっしゃってくださっているんです。私としては吹が安心して暮らせるなら、譲渡をしてもよいかと考えています」
「……………お前はどうなんだ?」
先ほどとは違い、改まった表情で土門はオパールを見た。
オパールはじっと土門を見返す。鳴きもせず、身じろぎもせず、ただその瞳だけが照明を反射して色を変える。オパール鉱石のような瞳に、土門はいつの間にか吸い込まれ、囚われつつあった。
「土門さん?」
マリコに呼ばれ、土門は我に返る。
『ニャー』
腕の中で吹が小さく鳴いた。
to be continued…
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