忘れてください
カランと来店を知らせるベルの音にマスターが顔を上げる。
「これは…」
マスターは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔和な笑みへと変わった。
「ようこそおいでくださいました。榊さま、土門さま」
「ご無沙汰しています、マスター」
マリコが返事をすると、土門もその背後で黙礼した。
ここは二人が時折訪れていたbar『microscope』。
この半年は仕事が忙しく足が遠のいていたのだが、今夜久しぶりに二人揃って顔を出したのだ。
店内に入るとマリコは辺りを見回した。
いつもは我が物顔で寝そべっている二匹の姿が見当たらない。
マスターはマリコの視線に気づき、教えてくれた。
「今日は知り合いのお宅に遊びに行っているんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。実は吹を譲ってもらえないかと相談されたんです」
「え?」
驚いたのは土門だ。
ある事件の後でやってきた吹を、土門はことのほか可愛がっていた。
「吹はもともとオパールが連れてきた迷い猫でした。飼い主が見つからず何となくここに居着いていましたが、きちんと飼ってくださる方がいるなら、その方にお譲りしたほうが吹のためかもしれないと思いまして…。今日はそのお宅にトライアルというか、一日体験に行っています。オパールは付き添いです。離れなかったものですから」
マスターはその時の様子を思い出したのか、苦笑いを浮かべた。
「そうでしたか。もし吹を譲渡されるなら教えてもらえますか?」
「ええ。もちろんです」
マスターは土門に頷いて見せた。
「さあ、おかけください」
二人はカウンターのスツールに手をかけた。
その時、不意に土門の腕とマリコの腕がぶつかった。
「すまん」
「ううん」
マリコは特に気にした様子もないが、土門は何となく残念な気がした。
10月に入り、ようやく季節は秋めく。
それにともなってマリコの服も半袖から長袖へ変わっていた。これまでふとした拍子に感じた素肌の感触が布地に変わってしまったのだ。
「今日は長袖なんだな」
「ええ。朝晩は冷え込むもの。土門さんも気をつけたほうがいいわよ」
そう言うと、マリコは肘までワイシャツをまくりあげた土門の腕に触れた。
「ほら、冷たい」
土門の腕がビクっと揺れる。
「お前の手も冷たいぞ」
「そういう季節になったってことね」
冷え性のマリコの手は冬には氷のように冷たくなる。それを温めてやるのが毎年土門の仕事のようなものだ。
「そろそろ出番か?」
土門はマリコへ手を差し出す。
「期待してるわ」
「お待たせしました」
二人の前に置かれたのは“マリコ”とウィスキーのハーフロック。
マリコは右手で。
土門は左手でグラスを手にした。
もう片方の手は、カウンターの下で繋がっているから。
