糸し糸しと言う心
ここから先は母親の判断に任せるしかなかった。
しかしその母親は娘の心の傷を知り、呆然とした表情で立ち尽くしていた。
気の毒だと思ったが、土門とマリコは鷺沼家を出た。
すると、二人の後にひょっこりとオパールが姿を見せた。
「あら?オパール、どこにいたの?」
「ニャァ…」
「ヴァイスに会っていたんじゃないのか?」
「ニャッ!」
正解らしい。
「そっか。侑李さんは眠っていた?」
「ニャン」
「これから、どうなるのかしら…」
マリコは鷺沼家を振り返る。
「吹のことか?」
「ええ。多重人格の場合、複数の人格がずっと残ることもあるし、何かのきっかけで一つの人格に戻ることもある。まだ解明されていないことが多いのよ」
「それは吹の意思でどうにかなるもんなのか?」
「分からないわ。でも、多くは体の持ち主の意思が大きく働くと思う」
「そうか…」
それだけ言うと、土門は黙ってしまった。
無言で車に乗り込み、エンジンをかける。
「そうか……」
土門の複雑な気持ちを乗せたまま、車は走り出した。
途中、microscopeの近くでオパールを降ろすと、軽い身のこなしであっという間に店の方へ走り去ってしまった。
「榊」
土門はオパールを見送るマリコに呼びかけた。
「なに?」
「少し寄り道してもいいか?」
「え?」
「話があるんだ」
「わかったわ」
土門は数分車を走らせると、道沿いのコーヒーショップのドライブスルーでブラックコーヒーとカフェラテをテイクアウトした。
そしてそのまま走り続け、公園の駐車場に車を停めた。
降りる支度を始めたマリコに、土門はカフェラテを差し出した。
「ここで話してもいいか?」
「あまり聞かれたくないこと?」
「そういう訳じゃないが…。吹のことだ」
マリコは頷くと、続きを待った。
「あの母親は吹の存在を知っていると思うか?」
「おそらく、知らないでしょうね。吹さんは侑李さんと入れ替わるとき、色々と気を使っていたようだもの」
「だよな。伝えたほうがいいと思うか?」
「それは……」
マリコは、しばし悩む。
「吹さんが嫌がるんじゃないかしら。隠したいから気を使っていたはずだもの。でもどうしてそう思うの?」
「もし。もし、だぞ。吹が消えるようなことがあれば、あいつのことを覚えていてやる人間が一人でも多くいたほうがいいと思ったんだ。そうじゃなきゃ、吹が不憫だ」
「土門さん…」
「そうだろ?名前も、記憶もあるのに、居なかったことにされるなんて。そんなの……殺されるのと同じだ!」
ーーーーー 『殺されるのと同じ』
その言葉はマリコの心にもさざ波を立てた。
「私には分からないわ。このまま肉体を持つことなく侑李さんと共存していくことと、侑李さんと同化していくこと。どちらが吹さんにとって幸せなのか」
「そんなの!」
勢い込んだものの、土門にも確かな答えはわからない。
マリコの言うとおり、吹という人格が残ったとして。
肉体を持たない彼女には自由がないのだ。
普段の吹は侑李が必要としたときにしか表に現れず、それ以外は侑李の意識の下で眠っているしかないのだ。
「俺は、何もしてやれないのか…」
ぽつり。
漏れた本音に、思わずマリコは腕を伸ばした。
助手席から身を乗り出すようにして、その大きな体をぎゅっと抱きしめる。
「そんなことない。こうして“吹さんのために”と考えてあげてるじゃない。たとえどんな結果になっても、それは土門さんのせいじゃないわ。忘れないで」
「榊…」
土門もマリコを抱きしめた。
土門はこの不安な気持ちを誰かに受け止めて欲しかった。
それができるのは、きっとマリコだけだ。
侑李と吹のように一つの体ではないけれど。
土門にとってマリコは、誰よりも近い存在だ。
だからこそ、別々の人間であることに心底安堵した。
こうして触れ合うことができるのだから。
マリコは土門を守るように。
土門はマリコを頼るように。
二人はまるで出口のない部屋に閉じ込められた不安を癒やすかのように、しばらく身を寄せ合い、その鼓動を感じていた。