糸し糸しと言う心
「鷺沼さん、聞かせてください。事件の真相を」
「刑事さん。主人のことは、本当に事故なんです。それも運の悪い…」
そう前置きすると、母親は語り始めた。
「刑事さんに指摘された通り、当時、主人の会社は経営難に陥っていました。足を棒にして銀行や知人に頭を下げても資金調達の目途が立たず、主人は徐々に荒れていきました。そして侑李の4歳の誕生日に、とうとう会社が不渡りを出してしまったのです。誕生日だからホールケーキが欲しい…そんな娘の小さな我儘さえ、あの人は聞き流すことができなかった。それほどまでに追い込まれていたのでしょう。侑李にだけは優しかった主人が手を上げようとしたのです」
母親は続ける。
「私は止めようとしましたが、間に合いませんでした。そのとき、代わりに侑李を守ってくれたのがヴァイスでした。ヴァイスは主人の平手をまともに受けて、弾き飛ばされました。壁に打ち付けられた衝撃で動けなくなったヴァイスを見て、侑李は驚愕し、そして怒りました。あの子は訳もわからず父親に体当たりしたんです」
「それでご主人は落下した?」
「いいえ。この出来事は階段ではなく、奥の部屋で起こったことでした。ですから主人もよろけて部屋の入口に手をついた程度でした。ただ、怒りに我を忘れた侑李は部屋にあった花瓶を、父親に向けて投げつけたんです」
「それがさっきの花瓶ですか?」
「そうです。でも花の生けられた花瓶は重く、4歳の女の子の力ではぶつかるどころか、主人の足元に転がっただけでした。ただ…。それは運悪く、主人が階段を降りようとしていた時だったんです」
「では花瓶に足を取られて?」
「はい。足を滑らせ階段を転落していきました。そして階下に落ちた時には、主人はもうピクリとも動きませんでした」
母親の供述は、吹から聞いていた話と大きなズレはなかった。
そして吹さえ知らない事実を彼女は語った。
しかし、それが真実だと証明できる手立てがない。
侑李が居たとはいえ、実際には密室での出来事と変わらない。
事件か、事故か。
「どう思う?」
土門はマリコを見た。
「花瓶を鑑定してみましょう」
「できるのか?」
「3年も土の中にあったものだから、どこまで精度の高い結果が出るか分からないけれど…。でもビニール袋に入っていたことは不幸中の幸いだわ。それに、見て。この花瓶にはまったく損傷がない」
「それが?」
「もしこの花瓶で殴りつけて鷺沼さんを突き落としたのなら、花瓶は傷ついているはず。でもこの花瓶に破損箇所はないわ」
「しかし、突き落としたという可能性もあるだろう」
土門は母親の存在を気にしつつも、指摘した。
「そうね。でも、土門さん。3年前、当時の鑑識は鷺沼さんの着衣をきちんと調べてる。掌紋や指紋はなかったそうよ。もちろん、手袋の繊維なんかもね。だから、事故死と断定したんだと思うわ。花瓶の鑑定が終われば、はっきりするはずよ」
ただ、とマリコは口にした。
「なぜ花瓶を隠したんですか?」
その疑問はもっともだ。
事故死ならば、偽装の真似事などする必要はないだろう。
「侑李の為です」
「というと?」
「主人の転落の原因を知れば、あの子は成長するにつれ自分を責めたり、後悔の念に苛まれることでしょう。それに警察が花瓶に疑念を抱き、侑李に容疑がかかるのを避けたかったんです」
「でも鷺沼さんが事故死と断定されたという事は、おかしな外傷所見はなかったということです。たとえ疑われたとしても、すぐに嫌疑不十分となったでしょう」
「だとしても!警察に疑われたということは、すぐに近所に広まってしまいます。そんなことになれば、侑李がどんな目に遭うか…あなた達にもお分かりになるでしょう?」
「……………」
土門は返す言葉が見つからない。
「ですが、あなたが真相を隠したことで、侑李さんはおそらくフラッシュバックに苦しんでいます」
「え?」
「もしかして、事件当夜、花瓶に飾られていたのは黄色い水仙ではありませんか?」
「どうしてそれを!?」
「榊?どういうことだ?」
母親は驚き、土門も眉を潜めた。
「事件の資料を読み返してみたら、ご遺体の衣服に微量だけど黄色い水仙の花粉が付着していたと記録があったの。事故死と断定されたから、それ以上詳しく調べなかったようだけれど。多分侑李さんの記憶の中で、黄色い水仙とお父さまの事件は繋がっている。だから彼女は黄色い水仙を見ると発作のようなものに襲われ、鉢植えを壊したんだわ」
「それが、あの日のことか!」
土門は、この事件の発端となった日のことを思い出した。
「ええ」
「え?それでは庭を荒らしたのは、侑李…なんですか?」
「前後の記憶は曖昧でも、侑李さんの心に黄色い水仙は事件のシンボルとして残っているのだと思います」
「奥さん。侑李さんへ真実を話してはどうでしょう?」
土門の提案に、マリコも頷いた。
「心配なら優秀なカウンセラーを紹介します。侑李さんの心にトラウマを残さないためにも、前向きに考えてみてください」
母親は「考えてみます」とだけ答えた。