other half



「マリコさん。送っていこう。少し待っていてくれ」

そう言われたが、正直…マリコは帰りたくなかった。
すでに土門少尉とのことは、丸山によって父の耳に入っていることだろう。
このまま帰れば、しばらく家から出してもらえなくなるかもしれない。
そんな風に思い悩んでいるうちに、支度を終えた少尉が戻ってきた。

「少尉?」

マリコは驚いた。
土門少尉は詰め襟の軍服を着ていたのだ。

「マリコさん、この機会にきちんとご家族に挨拶させてもらえないだろうか?」

「え?」

「逃げ隠れすれば、余計に印象は悪くなるだけだ。それに、私はそんな卑怯な真似はしたくない。あなたを正々堂々と手に入れたい」

手に入れたい…少尉にしては強引なその言葉がマリコの心の琴線に触れた。

私もあなたのものになりたい、と。
そして…。

マリコは少尉の手を握った。

「私も正々堂々とあなたと一緒にいたいです」

二人は固く手を握りあった。




マリコが帰宅すると、廊下の奥から荒々しい足音が聞こえた。

「マリコ!………と、君は、確か?」

マリコ一人だと思っていた伊知郎は見覚えのある軍人の姿に驚いた。

「以前一度お目にかかったことがあります。陸軍所属、土門少尉であります」

キビキビと少尉は会釈する。

「ああ。マリコを助けてくれた…その節はありがとう。ところで今日………」

そこまで言いかけたところで、伊知郎の表情が険しくなった。

「まさかとは思うが、昨夜マリコがお世話になったのは君のところかね?」

「はい」

「君…。自分が何をしたのか分かっているのか?娘はまだ嫁入り前だぞ!」

「お父さま!私が泊まりたいって頼んだのよ!」

「お前は黙っていなさい。朝帰りなんて、世間様がなんと言うか…」

「世間なんて関係ないわ!」

「お前は、何もわかっていない。部屋へ行っていなさい。私は彼と話がある」

「そんな…私も!」

「マリコさん。私も榊教授と二人で話したい」

土門少尉がマリコに頷いて見せる。
その力強い視線は、マリコを安心させた。

「わかりました。でも、お父さま。私の気持ちは変わらないから!」

マリコは後ろ髪をひかれつつも、自室へ戻っていった。




「土門少尉、玄関先ではなんだ。上がりなさい」

「はっ。失礼いたします」

二人は伊知郎の書斎へ移動すると、向かい合った。
伊知郎はあえて椅子を進めなかった。
自分も立ったまま、娘の選んだ男と向かい合う。

「丸山くんから連絡があってね。彼の話だと、マリコは粗暴な下級軍人にたぶらかされ、手篭てごめにされたそうだ」

「…………」

土門少尉は何とも言えない顔をする。

「随分と悪し様に言われたものだね。少なくとも私は君を粗暴だとは思わないし、マリコを手篭めにするような男ではないと思う」

少尉は黙って頭を下げた。

「しかし、たとえ娘の我儘だったとしても、嫁入り前の娘が朝帰りしたなどと…噂はあっという間に広がってしまう。それはあの子のためになるだろうか?」

「いえ。自分の考えが浅はかでした。マリコさんのことを考えれば、榊教授の言う通りだと思います。申し訳ありません」

「正直に言うと、マリコが丸山くんと結婚すれば、私の仕事も、あの子の将来も安定だという期待は大きい。でもね、私は…あの子に、マリコには幸せになってほしい」

伊知郎は、書斎の机に置かれた新聞に目を向けた。
その一面には、大正デモクラシーのもと、女性解放運動についての記事が大きく取り上げられていた。

「これから間違いなく女性進出の時代がやってくる。男女関係なく、自分の将来は自分で決める、そんな自由な時代を、あの子には伸び伸びと生きていって欲しい」

伊知郎は土門少尉の顔をじっと見つめた。

「君にはそんなあの子を支える覚悟はあるかね?」

「………運命の相手なのです」

土門少尉はぽつりとつぶやいた。

「運命の相手?」

不思議そうな伊知郎に、土門は笑ってみせた。

「いえ。何でもありません。榊教授の仰るように、時代は変わっていくでしょう。たとえどんな時代になったとしても、自分はマリコさんがマリコさんらしくいられるように、彼女の笑顔を守るためなら、この命を投げ出すこともいといません」

少尉は伊知郎へ告げた。

「マリコさんを愛しています。マリコさんを私の妻に迎えさせてください」

「…………………………」

長い、長い、沈黙の末。
伊知郎は根負けしたように、詰めていた息を吐いた。

「丸山くんの件が落ち着くまで、マリコに会わずにいられるかね?」

「この先何十年をマリコさんと過ごせるなら、少しの間くらい問題ではありません。そんなことで揺らぐ決意ではありません!」

「土門少尉…君、下の名前は?」

「薫、と言います」

「そうか。では薫くん、私の娘の見る目に間違いはないようだ。君のような男を選んだ娘を誇りに思うよ。薫くん、娘を……よろしく」

伊知郎の皺の重なる目尻には、うっすら涙が浮かんでいた。




土門少尉はマリコに会うことなく、榊邸を辞した。

門に続く石畳の途中で、土門少尉は立ち止まった。
マリコの部屋など、土門少尉は知らない。
それでも運命の糸に導かれ、二人は視線を絡めた。

待っていてほしい。

待っています。

土門少尉は前を向き、再び歩き出した。


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