おくる言葉
――――― 京都を離れたくない理由。
朝、マリコが目覚めると、隣から「おはよう」という挨拶が聞こえる。
そしてすぐに温かいものがマリコの唇を塞いだ。
「急がないと遅刻しちまうぞ!」
どこか楽しげなその声が、マリコのアラーム代わりだ。
日中、頭を休めたいとき。
考え事をしたいとき。
ふらり、とマリコは屋上へ足を運ぶ。
別に約束も連絡もしていない。
それでも、いつも赤いネクタイを締めたジャケットの背中がそこにはある。
夜。
寝支度を整えベッドに潜り込んだマリコの体は、すぐに太い腕に引き寄せられる。
そしてたくましい胸の中で、ある時は深夜遅くまで熱に浮かされ、またある時は安らかな眠りへと誘われるのだ。
マリコはこの満ち足りた生活を手放したくなかった。
もう、あの声が、腕が、無くなるなんて考えられない。
京都を離れたくない理由。
それは。
「榊?」
土門薫、という存在だった。
「どうかしたか?」
助手席の前でぼんやりと立ち尽くしたままのマリコを土門は気遣う。
「いいえ、何でもないわ」
「そうか?」
土門は心配そうだ。
ここ数日、土門はかなりの鑑定件数をマリコのもとへ持ち込んでいた。
当然、マリコが担当する鑑定は土門以外の依頼もあるはずだ。
オーバーワーク気味であるこことは確かだった。
「明日は非番だし、今夜は風呂に入ってゆっくり休め」
「そうね。そうさせてもらおうかしら」
「ああ」
神妙な顔で頷く土門に、マリコはプッと吹き出した。
「本当にいいの?」
「何がだ?」
「明日は朝寝坊できるのに?」
マリコの言わんとするところを悟った土門は、眉を跳ね上げた。
「ご要望とあれば、応えるが?」
「あ、ズルいわ」
「言い出したのはお前だろう。で、どうするんだ?」
「んー。…………」
コソコソと耳に囁かれた言葉に、土門は嬉しそうに笑う。
「そうと決まれば…さっさと帰るぞ!」
意気揚々、土門はアクセルを全開にふかせた。