野生の同盟
数日後。
マリコは『microscope』をおとずれた。
土門と来る予定だったのだが、藤倉に呼び出されたため、一人先にやって来たのだ。
「マリコさん、いらっしゃい!」
「スバルくん、マスター、こんばんは」
「いらっしゃいませ、榊さま。あの……土門さまはご一緒では?」
「後から来ますよ」
「そうですか……」
マスターは無意識に胸を撫で下ろした。
「オーダーはどうなさいますか?」
「そうね。たまにはギムレットを」
「承知しました」
それから土門が到着するまで、マリコは数杯のカクテルとマスターとの談笑を楽しんだ。
マスターは片付けや買い出しをスバルに言いつけ、マリコから遠ざけた。
不服そうなスバルだったが、マスターの命に逆らうことはできず、黙々と仕事をこなし続けていた。
そんなスバルに、チャンスがおとずれた。
酒屋のオーナーから仕入れの件で、急ぎの連絡が入ったのだ。
マスターは心配そうにしながらも、仕方なく店の奥に引っ込んだ。
「マリコさん、おかわりは?
「え?でもマスターは電話中でしょう?」
「長くかかりそうだから、俺、作りますよ」
「スバルくん、できるの?」
「叔父貴には敵わないけどね。この辺りのなら、作れるよ」
スバルはメニューの一区画を指差した。
「そう?それなら…キールをお願い」
「オッケー」
スバルはマスターの見よう見まねで白ワインとカシスリキュールを併せ、マリコにキールを差し出した。
マリコは一口飲んでみた。
「うーん。あと一歩かな?」
「チェッ。厳しいな」
「何でもそんなに簡単にはいかないわ。頑張って練習しなきゃ!」
「ねえ、マリコさん」
「なに?」
「俺が腕を上げてさ。叔父貴と同じくらいのカクテルを作れるようになったら、『マリコ』を作らせてくれる?」
「……………」
マリコはしばらく考え込んでいたが、ゆっくりと首を振った。
「『マリコ』はマスターが私のために考えてくれたオリジナルカクテルなの。スバルくんには、スバルくんオリジナルのカクテルを考えて欲しいわ」
「じゃあさ、試作品に付き合ってよ」
「え?今?」
「うん」
スバルは「これも試作品ね」といっては、次々にマリコの前にカクテルを並べる。
少しずつ口をつけていただけのマリコだったが、さすがに酔が回った。
マスターはまだ奥の部屋に入ったままだ。
頬杖をつき、まぶたが重くなったマリコは、とうとうカウンターに突っ伏してしまった。
「マリコさん?」
呼びかけに反応しないことを確かめると、スバルはマリコの艷やかな髪に触れ、その手触りを楽しんだ。
「マリコさん?」
耳元で囁いても、美しくカーブを描くまつ毛はピクリとも動かない。
すっとした鼻筋に。
酔って熱を帯びた頬。
そしてグロスに彩られた唇は、うっすらと開き、静かに息を吐き出している。
「マリコさん……」
スバルはゆっくりと身をかがめ、マリコに覆いかぶさっていく。
いたずらに耳たぶへ息を吹きかける。
くすぐったいのか「んっ…」と艶めいた声が漏れた。
スバルはその声の出どころを追う。
柔らかそうなそれを啄み、塞いでしまおうとした時。
ぐいっ!
骨が折れるかと思うほどの力で、腕を引かれた。
「つぅ!」
顔を顰めたスバルが見たのは、能面のような顔の男だった。
「榊に何をした?」
予想に反した静かな声が、スバルには不気味だった。
「言え。榊に何をした?」
「な、何も……」
「そうか。では質問を変えよう。お前は榊に何をしようとしていた?小僧!」
一瞬現れたのは憤怒の形相。
「お、れ、は…」
スバルは恐怖のあまり、口が強張り、声が出ない。
「貴様…」
土門はスバルの胸ぐらに手を伸ばした。
「土門さま!?」
用件を終え、奥の部屋から顔をのぞかせたマスターは、二人のただ事ではない様子にこちらへ向かって走ってくる。
土門は素早くスバルの胸ぐらをつかむと、至近距離で凄んだ。
「俺のものに手を出すな!」
土門が手を離すと、スバルはその場にへたり込んだ。
「土門さま?」
マスターはカウンターで眠るマリコに気づき、二人の男を見比べた。
「スバル!お前、榊さまに…!?」
「俺は!マリコさんに試作品のカクテルを飲んでもらってただけだ!」
スバルは叔父へ必死に弁解する。
しかし。
「馬鹿者!お客様を自ら酔わせて潰すなど…。お前にはバーテンダーを目指す資格はない。今夜限りでクビだ!」
初めて見るマスターの厳しい叱責に、言われたスバルはもちろん、土門までもが呆気に取られた。
「色恋沙汰は大いに結構。その経験はバーテンダーとして、より一層深みのあるカクテルを作り出す手助けになる。だが店内でお客様に手を出すことはご法度だ。このカウンターはバーテンダーには聖域。そこを汚すような真似は絶対に許さない」
バーテンダーとしての確固たるプライド。
スバルは叔父と自分の器の違いを痛感し、打ちひしがれた。
「土門さま。誠に申し訳ございません。店のオーナーとしても、スバルの叔父としても、どう償えばよいのか…」
土門が口を開こうとした時。
「ニャ~」
呑気な鳴き声が割り込んだ。
…と思った矢先。
「ニャンッ!」
オパールはスバルの頭の上に飛び乗った。
「うわっ!」
スバルはあやうくバランスを崩しそうになる。
「オパール!お前何する…イテッ!」
スバルは、その額に強烈な猫パンチを食らった。
「ウニャン!」
そのひと鳴きは、目の前の土門へ対するものだろう。
今回はこれで勘弁してくれ、と。
オパールは『microscope』の看板猫。
マスターはオパールにとって主人にあたる。
忠実な猫は主人を守ろうとしているのかもしれない。
「分かった、分かった。オパール、もう勘弁してやれ」
なおもバシ、バシ叩かれ続け、スバルは悲鳴を上げていた。
「ニャ~」
土門の許しに、ようやくスバルは猫パンチから開放された。
「おい、小僧。今回はマスターとオパールの顔を立ててやる。だが、忘れるな。次は…ない。榊は………」
「んんっ…」
男たちの大声に、ようやくマリコが顔を上げた。
「あ、どもん、さん?」
まだ酔っているのか…その声は甘えたように呂律が定まらない。
土門はぼんやりとしたマリコの顎に手をかけると、くいっと自分のほうを向かせた。
「榊は、俺の女だ」
そういうと、その場で証明してみせた。