紅葉伝説殺人事件
「マリちゃん!」
突然現れた娘にいずみは驚き、パイプ椅子から立ち上がった。
「母さん!心配したのよ」
「ごめんなさい。ごめんなさいね」
いずみは『ごめんなさい』を繰り返すばかりだ。
「母さん、もういいから。とにかく父さんに連絡するわね」
「待って!」
いずみはスマホを取り出したマリコを止めた。
「母さん?」
「父さんには……伝えなくていいわ」
「何言ってるの!何日も留守にして。心配しているはずよ」
「してないわよ、父さんは!」
「母さん、父さんと何かあったの?」
「父さん、私のことを疑ったのよ」
「どういうこと?」
「実はね、今度、県立博物館で紅葉伝説の特設展示をすることになったの。それでね、母さん、ボランティア解説員に応募したのよ」
「母さん、そういうのに興味あったの?」
「一度やってみたいと思っていたの。講習を受けて、資格も取れたのよ。後は1週間後の展示開始を待つばかりだったんだけど。その間に、フィールドワークへ行かないかと誘われたの」
「誘われた?」
「そう。川村紅葉さんていってね、講習会で仲良くなった人から。私も一度は実際に見てみたかったから、父さんに旅行のことを相談したの。そしたら、父さん……」
『ボランティアなんでしょう?わざわざ長野まで行く必要があるのかい?それにその日、僕は出張だって伝えてあったよね?よりによって同じ日に旅行だなんて…』
そして、伊知郎は続けた。
『母さん、一緒に行く人は本当に女の人なのかい?』
と。
「許せないわよ!」
思い出したのか、いずみは酷く憤慨する。
「妻を信じてないのかしら…」
今度はずずっと鼻を鳴らす始末だ。
「母さん…」
こんな状況に置かれ不安な気持ちが大きい中、夫には頼れず、いずみは情緒不安定に陥っているようだ。
マリコは母の背中を労るようにさする。
そんな母娘の様子を部屋の外で聞いていた土門は、どうにも顔を出しづらくなってしまった。
しかし、マリコに伝えなければならないことがある。
控えめなノックのあと、土門は扉を開けた。
「榊、ちょっといいか?」
その声に中の二人が顔を上げた。
「あら?あなた…」
「土門さんよ。ここまで私を送ってくれたの」
土門は小さく会釈した。
「まあ…。ありがとうございます」
「いえ」
「母さん、ちょっと待っててね」
そういうとマリコはいずみのそばを離れ、土門と廊下へ出た。
「すまん、榊。呼び出しだ。俺は先に京都へ戻る」
「分かったわ。明日は母さんと電車で帰るから大丈夫よ。ありがとう、土門さん。気をつけて帰ってね」
「ああ。何かあれば連絡しろよ」
「ええ」
土門はすっとマリコの頬を撫でると、足早に去って行った。
「ねえ、マリちゃん」
いずみは戻って来たマリコに声をかけた。
「なに?」
「あなたと土門さんて、もしかしてお付き合いしているの?」
ガタガタンッ。
「いたっ!」
まさかの指摘に、マリコは派手に足を椅子にぶつけた。
「ふーん。そういうこと」
「ど、どういうこと?」
「こっちの話よ」
いずみはニッコリ笑ってみせる。
「さ、マリちゃん。そうと決まれば長居は無用よ。さっさと帰り支度を始めましょう♪」
何が決まったというのか、いずみはこれまでの落ち込みが嘘のように晴れやかな顔をしている。
言葉の語尾まで尻上がりだ。
マリコは赤い顔で苦笑いをするしかなかった。