ただひとり、貴方だけ
マリコは、逃走した男が廃屋の裏側に回り込むのを目撃していた。
建物の壁際をできるだけ物音をたてないように、足元に注意して進む。
角から少しだけ顔を覗かせて奥を見ると、犯人の男が裏の塀をよじ登ろうとしていた。
土門の応援を待つか、男の後を追うか……マリコが逡巡していたとき、みやびが追いついてきた。
「榊さん、あなたどういう…」
「しっ」
黙ってとジェスチャーし、その人差し指を壁の奥に向ける。
みやびがそっと覗くと、男は今まさに壁を越えようとしていた。
「待ちなさいっ!」
ここで逃がすわけにはいかない、とみやびが飛び出し、男の靴をつかんだ。
驚いた男は塀から手を滑らせ、落下した。
みやびもその下敷きになるように、背中から地面に倒れた。
しかしすぐに起き上がった男は、自分がさっきまで持っていた鉄パイプが、近くに転がっているのを見つけた。
そしてそれを掴むと、みやびめがけて降り下ろした。
「あぶないっ!」
飛び出したマリコは男に体当たりし、みやびを守るように覆い被さった。
一瞬よろめいた男の鉄パイプは狙いが外れたものの、マリコの左足首を強か打ち付けた。
「つぅ…」
マリコの顔が苦痛に歪む。
「この女!」
もう一度鉄パイプを振り上げた男に、マリコは頭を守るようにうつむき、衝撃に備えて目をつむった。
「榊!」
駆けつけた土門は、鉄パイプを振り上げた男めがけて、持っていた警棒を投げつけた。
それは男の右腕にヒットし、鉄パイプを弾き飛ばした。
「観念しろ!」
土門は男の腕を捻りあげ、足払いを喰らわせて地面に這いつくばらせる。
同時に、蒲原たち捜査員がわらわらと現れた。
「蒲原、確保だ!」
「はい!」
蒲原が男の腕に手錠をはめ、立ち上がらせると、両脇を捜査員が掴んで連行していった。
「榊、浅野、無事か?」
「自分は大丈夫です」
立ち上がったみやびは、身体中に着いた誇りをパタパタと叩き落とす。
「榊?」
マリコは背中を向けたままで返事をしない。
土門はマリコが手で押さえている足元に目をやり、赤く腫れ上がった足首に気づいた。
「榊、大丈夫か?」
土門がしゃがみこんで、気遣わし気にマリコの顔を覗のぞきこむ。
「…ええ。……なんとか」
マリコは痛みに歪んだ顔で強がる。
「まったく、お前は……」
土門は、マリコを抱えて運ぶべく背中に手を添え、膝裏に腕を通そうとした。
しかし、それに気づいたマリコが身を捩って反抗する。
「?」
「やめて、彼女がいるのよ?支えてくれれば歩けるわ」
マリコは小声で土門にそういった。
「あいつに何か言われたのか?」
みやびは少し離れた場所で二人の様子を見ている。
「さっき、屋上で土門さんと蒲原さんの会話を聞いたの……」
「………」
土門はため息を吐くと、両手でマリコの腰を掴み、ひょいと肩に担ぎ上げた。
「ちょっと、土門さん!」
焦ったマリコが手をばたつかせる。
「なんだ?少しの間我慢しろっ!」
土門の一喝に、さすがのマリコも押し黙った。