ただひとり、貴方だけ
翌日、土門たちの願いも虚しく、事件は起こった。
早朝5時。
土門は児童公園脇の植え込みで、科捜研の到着を待っていた。
「土門さん!」
最初に来たのは、マリコだった。
彼女は科捜研の車ではなく、自宅から直接自転車でやって来たらしい。
「こんなに早くから悪いな」
「ううん。ご遺体確認できる?」
白衣を羽織ながら尋ねる。
「ああ。頼む」
被害者はホームレスの老人だった。
身体中あちこちに何か固いもので殴られたような痣が見受けられる。
そして、その顔は判別が困難な程に叩き潰されていた。
「打撲痕が多いから判断が難しいけど、たぶん後頭部の傷が致命傷だと思う…。死後硬直の具合からみて、死亡推定時刻は……」
マリコが淡々と検視を進めていく背後で、うっ、という呻き声が聞こえた。
振り返ると、みやびが植え込みの影にしゃがみこんでいた。
「もしかして、彼女が?」
マリコの問いに土門は頷いて、一瞬だけ後ろを見る。
「大丈夫なの?」
「誰でも初めて遺体を見ればあんなもんだろう。おまけに、今回は状態も酷い……」
土門は改めて遺体に目をやり、眉を潜めた。
「……ええ、そうね」
マリコはぐるりと遺体を見回して、見落としていることがないか確認すると、手袋を外して立ち上がる。
「ご遺体は洛北医大へ搬送して」
「分かった」
土門はすぐに各方面への指示を出すべく、動き出した。
マリコはベンチ脇の自動販売機でミネラルウォーターを買うと、まだしゃがみこんだままのみやびのもとへ向かう。
「大丈夫ですか?……あの、よかったらどうぞ」
肩を労るように叩きながら声をかけ、ペットボトルを差し出す。
顔をあげたみやびは、マリコを見て驚いたような表情をした。
しかし、次の瞬間にはマリコの白衣から覗いている血塗れのビニール手袋に反応した。
「いらないわ!そんな手で触らないで!!」
パンっ、と乾いた音が響き、ペットボトルが地面に転がる。
「マリコさん!?大丈夫ですか?」
ちょうど到着した宇佐見が異変に気づいて二人に駆け寄る。
「宇佐見さん!大丈夫よ」
マリコはペットボトルを拾い上げると、みやびの側におく。
「榊?どうかしたか?」
宇佐見の声に気づき、土門もこちらに戻ってこようとする。
それをマリコが止めた。
「何でもないわ!」
足を止めた土門は不信そうにマリコを見たが、当の本人は既に宇佐見へ採取の指示を出していた。
「宇佐見さんと呂太くんは、ご遺体周辺の微物の採取お願いね。亜美ちゃんは……」
「防犯カメラですね!」
「お願い。私は解剖に立ち会ってくるわ」
科捜研メンバーはそれぞれの持ち場へ散っていった。
みやびはそんなマリコの様子をじっと観察していたが、やがて足元に置かれたペットボトルに目を移した。
「浅野さん。そろそろ動ける?」
頭上から蒲原が声をかける。
「すみません、もう大丈夫です」
みやびは気丈に立ち上がった。
そして、迷った末にペットボトルをゴミ箱に捨てると、蒲原の後に従った。
「おい、榊!」
白衣をバッグにしまい、自転車に乗ろうとしているマリコに土門が呼びかける。
「何?」
「お前、自転車で移動する気か?」
「え?ええ。置いていくわけにいかないでしょ?」
「移動時間のムダだろう。自転車は後で回収しておいてやる。所轄のパトカーに送ってもらえ」
「でも………」
「もう話は通してある。駄々をこねるなよ」
「子どもじゃないわよ!」
「早く行け」
「はいはい……ありがとう」
背中越しにそういうと、土門はおぅ!と答えて持ち場へ戻っていった。